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市民社会論 仮言命題は社会主義的で、定言命題は反社会主義的である

『資本主義から市民主義へ』より

-- それが特定の市民社会論になるというのはどういうことですか。それは理論的にはかならずしも必要じゃないでしょう。

岩井 うん。だけど、カントが言う、仮言命題にもとづく倫理は、真の意味での倫理ではない、定言命題として定式化される倫理のみが倫理であるという考え方とおもしろいほど適切に関連してくるんですよ。なぜならば、定言命題とは自己循環論法なんですよ。カントの倫理論がおもしろく、そして深いのは、それが自己循環論法になっているということなんです。

 仮言命題的な倫理というのは、個人の幸福であれ、社会の利益であれ、なんらかの効用や目的を達成するための手段として定式化されている。約束を破ると人からの信用を失って、結局は損をするから約束を破ってはいけないというたぐいの議論です。これに対して、定言命題というのは、外部からのなんの根拠づけも必要としない、それ自体を目的とする行動規範です。つまり、それが同時にすべての人間にとっての行動規範となることをあなたが望む行動規範にもとづいて行動せよ、というわけです。約束を破ることは、それ自体でいけない。他の人が約束を破らないとき自分だけ約束を破るのは個人にとっては得であるかもしれない。だが、すべての人が約束を破ることを行動規範にすれば、約束という制度そのものが不可能になるから、約束は破ってはいけないというわけです。これはほとんど数学のように形式的な命題です。

 言ってみれば、仮言命題は社会主義的で、定言命題は徹底的に反社会主義的です。個人の行動を社会全体の利益の名において制約する仮言命題的な倫理の極致が、社会主義だからです。カントは、外から与えられたなんらかの目的から導かれる倫理というものを全否定する。それ自体が目的である行動規範こそ倫理であるというのは、倫理がまさに自己循環論法であるということです。カントを語る多くの学者はこのことの重要性を理解していないと思うのです。倫理というのは自己循環だということを……

-- わかりますよ。わかるけれど、自己循環というのは根底が無根拠だということを含むんですよ。

岩井 うーん……

-- 自己循環論法でいった場合には、すべてが無意味になる地点があって、それこそ人間が世界を意味づける自由を可能にする地点なんだと……

岩井 うーん。そうだけど、でも……

-- 岩井さんの貨幣論も法人論も、そういうふうになっている。

岩井 そうなんですけど、重要なことは、カントの理論は権利論として理解できるということです。たんなるシニシズムではなくてね。

 政治哲学や倫理学で、昔から効用主義と権利主義のあいだで論争がありますよね。たとえば、基本的人権や私有財産権のような人間がもつさまざまな権利に関して、その権利を絶対多数の絶対幸福を実現するための手段としてみるのか、それともそれ自体が守られるべき目的とみるのかという論争です。カントはもちろん、権利論者です。ただ、同時に、カントは通常の意味での自然法論者でもありません。

 たとえば、基本的人権とは、すべての人間は他人の手段としてのみ扱われてはならないという倫理規範を法律化したものです。その出発点は、理性的な存在同士がお互いを理性的な存在として認めあうことです。理性的な存在とは自分で自分の目的を設定できる存在であり、お互いが理性的な存在であることを認めあうことは、お互いがお互いを目的それ自体として認めることになるわけです。そのような相互承認がないかぎり、基本的人権などは存在しない。事実、基本的人権なんて昔は存在しなかった。たとえばギリシア時代には、基本的人権なんて、お互いにお互いを英雄として認めあう英雄しかもっていなかった。でもそれが、権利への闘争の長い道のりを経て近代になって確立し、現代においては、少なくとも先進国の人間はあたかも基本的人権が自分の体の一部であるかのように振る舞っています。

 そもそも基本的人権というのは物理的にあるわけではない。相互承認を法的に権利化、いや実体化したにすぎない。けれど、たとえばアメリカ人なんか、自分の基本的人権を鎧のように着て世界中を閑歩している。

-- それはつまり、それに意味があって、それに価値があるという岩井さんの根拠そのものが、じつはすべて無意味で、ほんとうはまったくそうじゃないかもしれないという地点があるということなんですよ。

岩井 もちろんそうですよ。

-- それが特徴なんですよ。

岩井 だからどこにも実体はない。

-- それがいちばん大きいポイントなんですよ。
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資本主義論 産業資本主義のイデオロギーとしての社会主義

『資本主義から市民主義へ』より 産業資本主義の時代 ポスト産業資本主義の時代

産業資本主義のイデオロギーとしての社会主義

岩井 かつては、工場で働く男性労働者は職工とよばれ、他人の家庭のなかで働く女性労働者は女中とよばれていました。それは明らかに農村の過剰労働力のはけ口だった。だが、六〇年代の後半に入ってからは、農村の過剰人口が枯渇してしまった。もう安い賃金で労働者を働かせることはできなくなった。職工という言葉も女中という言葉も、使用禁止語になってしまいました。そうすると、機械設備をもっているだけでは、労働者を大量に雇おうとすると高い賃金を払わなければならないので、もはや利潤をえることはできなくなった。そこで資本主義的企業は何を考えたか。差異性によって利潤を生み出すという商人資本主義の原理を、意図的に使うようになったわけです。

もちろん、商人資本主義の段階でも、商人自身はその原理を意識していたわけです。たとえば大航海時代における遠隔地商人は、インドで胡椒を安く買い、ヨーロッパでそれを高く売っていたわけですから、二つの土地のあいだの価格の差異性を利潤に転化するという原理を意識的に使っていたはずです。

だが、少なくとも古典派経済学者はその原理がわかっていなかった。というか、古典派経済学は、まさに差異性が利潤を生むという商人資本主義の原理を否定し、産業資本主義こそ真の資本主義であると宣言することから出発したわけです。これは、産業革命期のまっただなかであった一七七六年に出版されたアダム・スミスの『国富論』の冒頭の文章を読めば、すぐわかることです。古典派経済学、そしてそれを継承したマルクス経済学、近代経済学は、まさに産業資本主義のイデオロギーにすぎなかった。そのいちばん悲惨な帰結が、社会主義であったわけです。産業資本主義だけが資本主義であると規定した古典派経済学の論理を、マルクス経済学は古典派以上に徹底的に追求してしまった。資本主義とはたんに差異性から利潤を生み出すシステムにすぎないにもかかわらず、その背後にもっと深遠な原理をもとめてしまった。

産業資本主義とは、資本主義化された都会と、いまだに資本主義化されていない農村という、社会構造的な大きな差異性の存在に全面的に依拠していたシステムにすぎない。にもかかわらず、たとえばマルクス経済学は、生産する主体としての人間は自分を再生産するための価値以上の価値を作り出す能力を内在的に備えているというような、人間中心主義的な原理によって、それを説明しようとしたのです。いわゆる剰余価値論です。もし人間に剰余価値を生み出す能力が内在的に備わっているならば、剰余価値を生み出すためには、無政府的な市場の媒介など省いて、中央集権的に管理したほうが合理的だということになる。そして、それが、一国の経済をあたかもひとつの機械工場のように運営するという社会主義思想を生み出し、あの社会主義国家の悲惨を生み出してしまったのですね。

差異だけが利潤を生むという資本主義の基本原理は、産業資本主義の時代には、ある意味で意図的に抑圧されてしまった。いや、たとえその原理を知っていても、産業資本家は使う必要がなかった。機械制工場さえもっていれば、横並びであっても、利潤はほぼ自動的にあがるわけですから。

ところが、農村の過剰な人口が枯渇し、労働者の賃金が労働生産性に応じて上昇してしまうと、もはや機械制工場をもっているだけでは、利潤は生み出せなくなってきた。そこで利潤を生み出すにはどうすればいいか。利潤は差異性からしか生み出せないなら、差異性を意図的に作り出さなければならないということになる。それが、ポスト産業資本主義にほかなりません。差異性を意図的に作り出すということは、結局、ほかの企業と違った製品をつくるということです。ほかの企業より能率の高い機械を発明することです。ほかの企業がいない市場を開拓することです。ほかの企業にはない組織形態を考案することです。ほかの企業よりなんらかの意味で優位性をもたなければ利潤をえることができない。

これは、マルクス的な言葉で言えば、特別剰余価値にほかなりません。ただ、重要なことは、ポスト産業資本主義においては、この「特別」な剰余価値しか剰余価値がないですから、「特別」という形容詞自体が無意味であるということなのです。とにかく、ほかの企業と違った技術や製品や市場や組織をもたなければ利潤を生み出せない。横並びは無理であって、総資本という概念が意味を失います。総労働も意味を失う。つまり階級対立という概念自身が有効性を失ってしまう。ある意味で、資本家の真の敵は他の資本家である。

資本家同士、企業同士の戦いが重要になってくるからです。
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バルト三国の歴史 ロシアとの関係

『バルト三国の歴史』より 西への回帰(一九九一~二〇一二)

独立にあたり、バルト三国にとって解決に最も急を要する懸案は、自国領からのロシア軍の撤退であった。三国に残留するソ連軍退役軍人に対する社会保障に関して合意したのち、リトアニアからは一九九三年に、ラトヴィアとエストニアからは▽九九四年にロシア軍が撤退するうえでアメリカからの圧力が後押しとなった。しかし撤退の実現にもかかわらず、三国とロシアの関係は冷えたままであった。ロシアは、エストニアおよびラトヴィアの民族的ロシア人の状況と、三国のNATO加盟について激しい非難を繰り返した。一方、三国の側は、影響力を行使しうる空間としての「近い外国」へ権益を主張するロシアに対し、警戒を強めていた。

バルト三国とロシアの関係改善には、国境協定の批准に伴う困難が大きな障害となっていた。一九九〇年代末までに、三国すべてとの間に合意自体は形成されていたものの、「紛争」を未解決状態にしておくことで三国のNATOおよびEU加盟を阻もうとする意図を持って、ロシアは調印を引き延ばした。リトアニアとの間では、一九九七年に国境協定への調印が行われたが、ロシアの議会での批准は、カリーニングラードのトランジットに関するEUとの一括取決めの一部として、二〇〇二年にようやく完了した。

リトアニアは三国の中で唯一、ロシアを西の隣国とする国である。それはロシア最西端のカリーニングラード州が飛び地として存在するためである。同州はヨーロッパで最も軍事化された地域である。一九九〇年代前半、カリーニングラードからロシア本国へのリトアニア経由での軍人ならびに軍装備の移送問題は、容易には解決を見ることはなかった。リトアニアとポーランドのEU加盟が日程に上ると、カリーニングラード問題は、EU・ロシア間の主要争点となった。ロシアが自国民に対するトランジットの際の査証免除を要求したのに対し、EUは将来のシェングン空間に「回廊」を作ることになるとしてこれに反対した。二〇〇二年、カリーニングラード州民に対して、ヴィザの代わりに簡易通行証明書を発給することで合意し、この問題は決着し加。ソ連解体後、カリーニングラードは、自由貿易圏や「第四のバルトの国」といった構想を有するバルト海の「香港」としての楽観的な未来図と、組織犯罪や人身売買、感染症のはびこる「ブラックホール」という悲観的な見通しの間で揺れている。いずれにせよ、二十一世紀に入り、ロシア連邦の諸地域の権限は、プーチン大統領の下、中央政府により厳しく制限されるようになった。

ラトヴィアとエストニアについては、第二次世界大戦末期に両国の領土の一部がロシア・ソヴィエト社会主義連邦共和国に移管されていたために、国境交渉は膠着状態に陥った。両国政府は、ロシア側が意を汲んで一九二〇年の平和条約の有効性を認め、国家の法的承継を承認してくれることを期待して、領土要求を放棄した。この期待は裏切られたものの、一九九九年には、外相聞で国境協定への仮調印が行われた。だが、その後の手続きは、バルト三国のNATOおよびEU加盟が実現してロシアが再びバルト三国への関心を新たにするまで塩漬けにされた。エストニアとの協定への調印は二〇〇五年にモスクワで行われたが、ロシアはのちにそれを撤回した。エストニアならびにラトヴィア議会が一九二〇年の平和条約の有効性に言及し、国家承継を暗に再確認したことに異議を唱えたのである。ラトヴィアはこれに抗弁し、ようやく二〇〇七年にラトヴィアーロシア間で国境協定の調印と批准が行われた。エストニアとロシアは、二〇一三年、修正された協定文の文言について合意に達した。

バルト三国側の期待に反して、NATOおよびEU加盟後もロシアとの関係に改善の兆しは見えなかった。ロシアは三国について厄介事を抱える新規加盟国としてのイメージを広めようと画策して、両組織の対ロシア政策に三国が影響力を行使するのを妨げようとした。それは、プーチン大統領の下で口シアが、国民的誇りの復活をてこに、民主主義体制から権威主義体制に移行していく過程に一致していた。二〇〇四年のオレンジ革命と呼ばれるウクライナでの民主化の動きを受けて、ロシアによるポスト・ソヴィエト空間での利益追求は攻撃性を増した。旧ソ連諸国の民主化改革やEUおよびNATO加盟に向けての動きを支援するバルト三国は、ロシアをいらだたせた。三国にとって、こうした支援は道徳的にも地政学的にも責務であった。二〇〇八年八月のグルジア紛争後、イルヴェス・エストニア大統領、アダムクス・リトアニア大統領、ゴドマニス・ラトヴィア首相は、ポーランドならびにウクライナの大統領とともに国家元首としては一番乗りでトビリシに飛び、グルジアとの連帯を示し、EUに対してロシアヘの断固たる対応を求めた。隣国ベラルーシとの一筋縄ではいかない関係の中で、リトアニアとラトヴィアは、国家的利益と民主主義的価値の促進の間で慎重にバランスをとることを強いられた。べラルーシは、一九九四年以来、「ヨーロッパ最後の独裁者」と呼ばれるアレクサンドル・ルカシェンコの支配下にある。
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バルト三国の歴史 他国の軍服を身にまとい戦うこと

『バルト三国の歴史』より 前門の虎、後門の狼(一九三九~一九五三) ソ連による併合 ⇒ ナチス帝国管区「オストラント」

第二次世界大戦でバルト三国は中立の立場をとっていたものの、市民たちは、民族抹殺を企図する二つの全体主義勢力のうちいずれかの国の軍服を着て戦わなければならなかった。バルトの人びとの中には、赤軍とナチス武装親衛隊(ヴァッフェンSS)の両方で戦った経験のある者が少なくない。戦前の国軍は赤軍の領域部隊に再編され、一九四一年五月末に訓練キャンプに送られた。多くの将校は逮捕され、ノリリスクをはじめとする北極圏に作られた収容所に移送されたうちの大半が処刑された。ナチスの侵攻が始まると、エストニアおよびラトヴィアの旧国軍のうち何とか生き残った者は、北西ロシアで防衛戦を展開し、その多くが犠牲になった。その後、ソ連後方の労働大隊に送られ、数多くの者が一九四一年冬、劣悪な環境下で死んでいった。一九四一年夏に撤退する赤軍に動員された多くの人びとも同じ運命をたどった。ドイツ軍の急進撃を受けたラトヴィアとリトアニアでは徴兵が間に合わなかったため、その多くを占めたのはエストニア人(三万三〇〇〇人)であった。赤軍での残忍な扱いに耐えかねた多くの兵士は、一九四二年夏に前線に送られた機会を逃さず、帰郷を願ってドイツ側に脱走した。

ソヴィエト体制への復讐を胸に抱き、あるいは共産主義者によって強制連行された家族の解放のために、何千ものバルトの人びとが志願してドイツ軍に入隊した。このバルトの志願兵は警察大隊や補助大隊に編成され、オストラント近郊地域で主に施設防衛ならびにソ連側パルチザンとの戦いに従事した。警察大隊の中には、ペラルーシおよびウクライナのユダヤ人の処刑に直接関与した者もいた。占領軍に協力した自治組織は、ドイツ軍の軍事行動に兵力の提供を約束する見返りに(スロヴァキアを手本に)自国領でのより大きな自治を求めた。エストニアとラトヴィアそれぞれの指導的人物であるオスカルーアングルス「一八九二~一九七九)とアルフレーヅ・ヴァルデマニス(一九〇八~七〇)はそうした計画の概略を記した覚書を準備したが、国家弁務官ローゼの反対にあった。ドイツ軍の軍事行動に対する現地の支持を挺入れするために、ローゼンべルクは一九四三年、ヒトラーに同様の控えめな提案を行ったものの、却下された。しかしながら、一九四三年、東部戦線での戦況が第三帝国に不利になると、ドイツ人はバルト地域での徴兵を強化した。警察大隊がもっぱら志願兵によって組織されたのとは対照的に、武装親衛隊へのエストニア人、ラトヴィア人、リトアニア人の徴兵が開始された。東欧の人びとは国軍(正規軍)への入隊を許されていなかったので、バルトの人びとは武装親衛隊の所属とされた。占領地域での動員はハーグ条約に反する行為であったので、それは「自発的な」入隊とみなされた。ナチス占領下のヨーロッパ諸国の中で、親衛隊の民族師団を組織しなかったのはリトアニア人ならびにポーランド人のみであった。リトアニア人の愛国的地下組織による効果的なボイコット作戦の結果、ドイツ人は、一九四三年に親衛隊への徴兵を断念せざるをえなくなった。それ以外にも三五〇〇人のエストニア人によるドイツ軍入隊拒否という形の抵抗が記録されている。それらのエストニア人は秘密裏にフィンランド湾を渡り、フィンランド軍に加わってソ連との戦いを継続した。必要な数の砲兵を得られなかったため、ドイツ軍は別の形でバルト地域の人力を利用した。一二万五〇〇〇人以上が、その大半はリトアニア人であったのだが、ドイツ本国の軍事工場での労働に従事させられた。

一九四四年初頭、赤軍のバルト三国接近に伴い、状況は劇的に変化した。以前は第三帝国のために働くことに抵抗していた人びとが、祖国防衛のために召集命令に決然と応じたのである。一九四四年二月、約二万人のエストニア人が登録された。戦時中にドイツ軍に動員されたラトヴィア人は十一万人であり、その半数がラトヴィア軍団(親衛隊第十五ならびに第十九師団)に編制された。

一九四四年初頭、赤軍が間近に迫り、リトアニアの東部国境地帯でソ連側のパルチザンによる攻撃が激しくなるとドイツ軍当局はリトアニア領土防衛隊の創設を発表し、尊敬を集めていたリトアニア人のポヴィラスープレ(ヴィチュス将軍(一八九〇~一九七三)がこれを率いた(彼は以前、ナチス武装親衛隊の勧誘運動に同調することを拒んでいた)。以前はリトアニア人を入隊させることに失敗したが、このときは入隊者の任地をリトアニア地域内に限定し、そしてリトアニア人将校の指揮下に入れることをドイツ軍当局が約束したため、二万人以上の男性が入隊した。だが、ドイツ軍当局はすぐに同部隊についての考えを変え、この部隊がリトアニア国軍の中核になるための準備を行うのではないかという疑いのまなざしを向けた。そして、最終的にはあまりうまくいかなかったものの、入隊者をドイツ人指揮下の部隊で勤務するよう配置し直そうとした。ヒトラーヘの忠誠を誓うように要求されたとき、リトアニア人は一気にドイツ軍から離れていった。五月、プレハヴィチュスは逮捕され、その部下数名が処刑された。部隊に属していた者の多くは武器を手に森へと逃げ、のちに反ソ連レジスタンスの中核として再び登場することとなる。

ナルヴァ戦線を越えてエストニア奥地へと進む赤軍を、一九四四年七月、ドイツ人とエストニア人の合同軍がタンネンべルク防御線(シニマエ)でくい止めた。赤軍は、十万人以上の死者を出しながらもドイツ軍の強固な守りに繰り返し攻撃を仕掛けたが、これを突破することはできず撃退された。この戦いでは局所的な単発の戦闘としてはバルト地域で最大の犠牲者が出た。バルト地域の戦闘部隊を配下に置いたドイツ軍北方軍団には、はるか南での赤軍の進撃を押しとどめるほどの物的・人的資源はなかった。ヴィルニュスは七月には攻略されており、赤軍はリーガを攻撃することで、エストニアで戦う北方軍団を孤立させようとした。おりしもフィンランドがソ連との停戦条約を締結した九月、ドイツ軍はエストニアを放棄した。リーガは十月に陥落した。
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