『センスは知識からはじまる』より 「センス」とは「知識」からはじまる
イノべーションは、ゼロベースで何かをつくることではありません。
『アイデアの接着剤』(朝日新聞出版)でも書きましたが、「1から2をつくる」「AにBを掛け合わせてCにする」そういった意味合いの言葉だと思います。
世の中にすでにあるAというものと、自分が見たことのあるBをくっつけて、Cというものを生み出す。これを高い打率でできれば優秀なクリエイターになれるはずです。どんな人であっても、ゼロからいきなりCがひらめくことは非常に稀です。
Aを知悉していれば、Aダッシュを生み出すことが可能です。Aに対する知識とBに対する知識が、「思いがけないこの二つを掛け合わせたらどうなるだろう」という発想を引き出し、Cを創造します。意外な掛け合わせを生むには、より多くのD、E、F……という知識を蓄えていくことも大切です。
「あっと驚かないけれど、新しいもの」とは実はAダッシュであり、いきなりXまで飛んでしまうと、市場ではまったく求められないということもあり得ます。
「あっ!」より「へぇー」にヒットは潜んでいる。僕はそう感じるのです。
ワープロと固定電話を使っていた人にとって、携帯電話やパソコンは「へぇー」でした。しかし江戸時代の人にスマートフォンを渡した場合、「あっ!」と思うでしょうか?おそらく「あっ!」ではなく「え?」という反応であり、結局のところ欲しがりはしないのではないでしょうか。
「どこがいいの? 何でもできるったって、この中から小判が出てくるわけじゃねえんだよな? じゃあ、いらねえよ」と言われそうです。
仮に僕が「この電話で、いつでもどこでも遠くの人と話せるよ。使い方はまず……」と説明を始めたら、江戸時代の人には、「いや、狼煙があるからいらねえよ。だいたい、いつも持ち歩いてなきゃいけねえなんて、いやだ」と拒絶されるかもしれません。
あっと驚く心の裏には、恐怖も潜んでいます。
たとえば「明日、火星に連れていってあげるよ」と言われたとき、「行きたい! 行きます!」と即答する人が何人いるでしょう?
これが数カ月後であれば、「行きたい」と答える人はたくさんいると思いますが、明日となると話は別です。スケジュールが空いていても、一瞬ためらいを感じる人は多いのではないでしょうか。
ほんとうに安仝なのか、もうちょっと確認したい。食事は宇宙食だろうけれど、どんなものなのか? トイレは? アメニティは? ケネディ宇宙センターから出発なら、英語が流暢じゃないとまずいのか?
新しいものを疑う気持ち、どんな感じかを事前に確かめてから行動したいという気持ちは、原始時代、危険と隣り合わせに生きていた人間の本能に根ざしていると僕は思います。また、確かめたい本能がなければ、「食ベログ」や「トリップアドバイザー」といったロコミサイトがこれほど人気を集めるわけもありません。
新しいものに接した時、過去のものや過去の知識に照らし合わせて考えるのが自然だということです。
僕たちはまた、未来と過去が引っ張り合いをしている世界に存在しています。人が未来に引っ張られる進化だけの生き物であれば、骨董好きな人などいないし、一定のサイクルで、古いファッションがリバイバルで流行することもないでしょう。古いものに慈しみをもち、古いものに対して「美しい」と思う感情が、未来へ、新しいものへと進もうとする力に拮抗して、バランスを取っているのだと僕はとらえています。
このバランスを加味した上で企画を考えないと、あまりにも先進的で攻撃的な、誰もついてこられない独りよがりの企画になってしまいます。
エンジンと電気モーターの力によりガソリン代の軽減とエコを実現したハイブリッドカー。既存の照明器具で使えるのに寿命は遥かに長いLED電球。メール、チャッ卜、SNS、電話などが一体化した機能を備えながら、はるかに手軽なLINE……。
みんなが「へぇー」と思うものは、ある程度知っているものの延長線上にありながら、画期的に異なっているもの。「ありそうでなかったもの」です。
従来の考え方を遠ざけ、独創性ばかりにこだわりすぎると、文字通り「独りよがりのクリエイティブ」になってしまいます。ものをつくる人間は、新しさを追い求めながら、過去へのリスペクトも忘れないことが大切なのではないでしょうか。過去から学ぶ際には、何を手がかりにするかを見極めることが肝要です。
新たなアウトプットの見本やヒントとなるのは何か?
それを知る糸口となるのが、知識に他ならないと僕は感じているのです。豊富な知識があるということは、センスを磨くためのよき師をたくさん持っているようなものです。たった一人の師ではなく、より多くの、しかも優れた師に学んだほうが、力が仲びていくことはいうまでもないでしょう。
イノべーションは、ゼロベースで何かをつくることではありません。
『アイデアの接着剤』(朝日新聞出版)でも書きましたが、「1から2をつくる」「AにBを掛け合わせてCにする」そういった意味合いの言葉だと思います。
世の中にすでにあるAというものと、自分が見たことのあるBをくっつけて、Cというものを生み出す。これを高い打率でできれば優秀なクリエイターになれるはずです。どんな人であっても、ゼロからいきなりCがひらめくことは非常に稀です。
Aを知悉していれば、Aダッシュを生み出すことが可能です。Aに対する知識とBに対する知識が、「思いがけないこの二つを掛け合わせたらどうなるだろう」という発想を引き出し、Cを創造します。意外な掛け合わせを生むには、より多くのD、E、F……という知識を蓄えていくことも大切です。
「あっと驚かないけれど、新しいもの」とは実はAダッシュであり、いきなりXまで飛んでしまうと、市場ではまったく求められないということもあり得ます。
「あっ!」より「へぇー」にヒットは潜んでいる。僕はそう感じるのです。
ワープロと固定電話を使っていた人にとって、携帯電話やパソコンは「へぇー」でした。しかし江戸時代の人にスマートフォンを渡した場合、「あっ!」と思うでしょうか?おそらく「あっ!」ではなく「え?」という反応であり、結局のところ欲しがりはしないのではないでしょうか。
「どこがいいの? 何でもできるったって、この中から小判が出てくるわけじゃねえんだよな? じゃあ、いらねえよ」と言われそうです。
仮に僕が「この電話で、いつでもどこでも遠くの人と話せるよ。使い方はまず……」と説明を始めたら、江戸時代の人には、「いや、狼煙があるからいらねえよ。だいたい、いつも持ち歩いてなきゃいけねえなんて、いやだ」と拒絶されるかもしれません。
あっと驚く心の裏には、恐怖も潜んでいます。
たとえば「明日、火星に連れていってあげるよ」と言われたとき、「行きたい! 行きます!」と即答する人が何人いるでしょう?
これが数カ月後であれば、「行きたい」と答える人はたくさんいると思いますが、明日となると話は別です。スケジュールが空いていても、一瞬ためらいを感じる人は多いのではないでしょうか。
ほんとうに安仝なのか、もうちょっと確認したい。食事は宇宙食だろうけれど、どんなものなのか? トイレは? アメニティは? ケネディ宇宙センターから出発なら、英語が流暢じゃないとまずいのか?
新しいものを疑う気持ち、どんな感じかを事前に確かめてから行動したいという気持ちは、原始時代、危険と隣り合わせに生きていた人間の本能に根ざしていると僕は思います。また、確かめたい本能がなければ、「食ベログ」や「トリップアドバイザー」といったロコミサイトがこれほど人気を集めるわけもありません。
新しいものに接した時、過去のものや過去の知識に照らし合わせて考えるのが自然だということです。
僕たちはまた、未来と過去が引っ張り合いをしている世界に存在しています。人が未来に引っ張られる進化だけの生き物であれば、骨董好きな人などいないし、一定のサイクルで、古いファッションがリバイバルで流行することもないでしょう。古いものに慈しみをもち、古いものに対して「美しい」と思う感情が、未来へ、新しいものへと進もうとする力に拮抗して、バランスを取っているのだと僕はとらえています。
このバランスを加味した上で企画を考えないと、あまりにも先進的で攻撃的な、誰もついてこられない独りよがりの企画になってしまいます。
エンジンと電気モーターの力によりガソリン代の軽減とエコを実現したハイブリッドカー。既存の照明器具で使えるのに寿命は遥かに長いLED電球。メール、チャッ卜、SNS、電話などが一体化した機能を備えながら、はるかに手軽なLINE……。
みんなが「へぇー」と思うものは、ある程度知っているものの延長線上にありながら、画期的に異なっているもの。「ありそうでなかったもの」です。
従来の考え方を遠ざけ、独創性ばかりにこだわりすぎると、文字通り「独りよがりのクリエイティブ」になってしまいます。ものをつくる人間は、新しさを追い求めながら、過去へのリスペクトも忘れないことが大切なのではないでしょうか。過去から学ぶ際には、何を手がかりにするかを見極めることが肝要です。
新たなアウトプットの見本やヒントとなるのは何か?
それを知る糸口となるのが、知識に他ならないと僕は感じているのです。豊富な知識があるということは、センスを磨くためのよき師をたくさん持っているようなものです。たった一人の師ではなく、より多くの、しかも優れた師に学んだほうが、力が仲びていくことはいうまでもないでしょう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます