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「存在と無」と一般意思

社会を持続可能性をめざしたい

 この会社の持続可能性という言葉には違和感があります。自分の会社の継続だけでいいのか。それでは中小企業と同じです。トップ企業として、それで十分なのか。

 社会を持続可能性にしていくこと。そして、自由を求めるとき。

災後の文明

 震災後で何が変わったのか。哲学です。存在の力です。それが『災後の文明』にはでていない。

「存在と無」と一般意思

 存在の力に一番近いのは、「一般意思」かもしれない。直接民主主義でないと、一般意思は表現できない。「一般意志」とは、「社会全体の意志」。

 間接民主主義は少数意見を排除した全体意思となります。狭い範囲での間接民主主義の積上げを狙う。

 それが共産主義のように、個人に自由がないことではダメです。出発点は個人の意思です。存在する力です。それをどのように表現するか、それをどのように具体的にしていくか。

主観と客観

 カントには、他者が必要です。客観を認める他者が必要です。そんなものは近くにいるのか。「主観」に現れた世界を「現象界」と呼び、現象界は他者と共有できるものとしています。「客観」のモノ(物自体)と、「主観」に現れるモノ(現象界)は一致するとは言えません。「客観」は「主観」の中にいる。これは当たり前です。これを「コペルニクス的転回」を言うけど、当たり前じゃん。

 カントまでは、主観に対して、客観がある、という考え方だったけど、ヘーゲルは主観の中に客観があるとした。これは私の感覚と似ている。自分との関係性抜きにモノを認識することはできない。

自己意識

 人間は意識から自己意識、そして理性の順番に向かっていく。これは歴史哲学も同じだと言っています。一つのモノを意識し、それが何であるかを深く知っていくと同時に、自分自身が何であるか、社会と自己との関係で自己意識を作っていきます。自己意識は自分が中心になります。

 そして、自分の存在が、他人や社会によって支えられていることに気づいて、「理性」をもって、自己を「社会的な存在」として自覚する。これは私にとっては邪魔ですね。そんな社会は私には見えません。

 ヘーゲルの理想の社会像を「国家」によって調停しあう自由というモノ。そのルールの実現のために、市民革命が起こったというのは、あまりにも格好良すぎます。そこから、もう一歩、先に進めないといけない。個人の自由と社会のルールが調和するような形を求めないといけない。
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