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沈黙は破られるのか ユダヤ教を存続させた聖書の力

「旧約聖書」100分で名著 より 沈黙は破られるのか

イエスの頃にユダヤ人が、どのような状況にあったかを考えてみます。ユダヤ人の神は、ヤーヴエです。しかし人は「罪」の状態にあります。救われていません。「律法」があります。「律法」は法律のようなものですから、すべてのユダヤ人が「律法」を遵守しなければなりません。この「律法」を、常識的に遵守するというのではなく、完璧に守れば救われる、ということになっています。しかし、すでに見たように、「律法」を完璧に守ることは不可能です。救いを実現させることはできません。

「律法」を介さない他の方法も、「エッセネ派」までのさまざまな試みによって、無価値であることがはっきりしています。人は何をしても、救われません。また「律法主義」によって、「神の前での自己正当化」は避けられています。

「黙示思想」によって「終末」が考えられています。「終末」は間もなく実現するとされていますが、待っても待っても「終末」は実現しません。

「救い」に関してユダヤ教は、いわば八方塞がりの状態になっています。

しかし「八方塞がり」なのは、人間の側から何も有効なことはできないという観点からの状況です。人間の側から何もできないならば、どうすればよいでしょうか。というより、どうなればよいでしょうか。神が動けばよろしい、ということになります。このことは預言者によって伝えられた「希望のメッセージ」に示唆されています。黙示文学の「終末」についてのイメージでも、神の側からの活動が考えられています。神の介入は、人間にとって好都合なものなのかどうか分かりません。いずれにしても、知恵文学で指摘されていたように、神が動くならば、人間はどうしようもないのではないでしょうか。

旧約聖書の全体のあり方を、短くまとめることは困難です。しかしこれまでのように検討してくると、次のように言えるかもしれません。

旧約聖書では、「人が何をしても救われない」「神の介入を待つしかない」ということが確認されている--と。

すでに指摘したように後一世紀末近くの「ヤムニア会議」において、「ユダヤ教の聖書」は「ヘブライ語で書かれた三十九の文書で構成される」という決定がなされました。

「五書」の編纂以来、五百年ほどの間、「ユダヤ教の聖書」の文書数は増える方向にあったのに、なぜこのような決定がなされたかを考えておく必要があります。「ヤムニア会議」での議論の詳しい様子が分かればよいのですが、そのような記録は残されていません。

ヘブライ語の聖書とギリシア語の聖書の内容の違いが顕著になっていて、「聖書」の統一性が崩れてしまうおそれがあった、ということが当面の実際的な理由だとされています。しかし統一性を維持するのが目的ならば、たとえば「聖書は、まずはヘブライ語で書かれた三十九の文書で構成される」と決めておいて、その上で、ギリシア語でしか存在しない文書の正式なヘブライ語版を作ったり、さらに新しく生じる文書の付加を慎重にコントロールしながら認めていく、といった選択も可能だったのではないかと思われます。

思索の展開という点についてのもっとも決定的な原因は、旧約聖書に蓄積されてきた思索が、「神の介入を待つしかない」という結論に行きついていた、ということだと考えられます。

ローマに対する全面的な反乱である「ユダヤ戦争」に敗北したことから生じた実際的な理由も、重要だったと思われます。この敗北の結果、エルサレムは破壊され、神殿も破壊されました。ローマ帝国の命令によって、ユダヤ人たちがパレスチナでまとまって生活するということも、できなくなりました。これ以降、ユダヤ人たちの全員が、「ディアスポラのユダヤ人」になってしまい、ユダヤ民族の全体を統一的に管理する制度や組織が、存在しなくなります。

こうした中で、「聖書」を変化のない形にしておくことが、ユダヤ教徒のまとまりを維持する唯一の手段として選択された、ということがあったと考えられます。そしてこの選択は、これ以降の二千年近くの様子を見る限り、きわめて適切だったということになります。

ユダヤ教は、正式には、ヤーヴェという神に依拠しています。しかしヤーヴェは、基本的には沈黙したままです。「終末」も生じていません。

ユダヤ教が長い歴史の流れを経ても消滅しないのは、「聖書」が、絶対の権威をもつものとして、社会的・宗教的に存在しているからです。そして「聖書」が、「書物」であるという点では確定的な姿をしているのですが、内容は十分に複雑で、全体についてのすっきりとした理解、全体についての完璧な理解が、人間の能力では不可能なものになっているからです。
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聖書の成立 「知恵」の高まり

「旧約聖書」100分で名著 より 聖書の成立 ペルシア帝国による権威づけ

そこで、第二段階が生じます。

ペルシア帝国滅亡の後も「律法」の権威が維持されることになった最大の理由は、「知恵」の問題に対処するのに「律法」が絶大な効力をもったからだ、と考えられます。

「知恵」とは、「考える力」のことです。誰にでも、多かれ少なかれ「知恵」の能力があります。言葉を用いて、明確に、そして論理的に思考することこそが「考える」ということだとするような傾向がありますが、こうした立場は人間の考える能力のうち「理性」の働きを重視し過ぎています。人間は理性を用いて論理的に考えるだけではありません。

日本語には「念じる」という言葉があります。人間は、言葉を用いて考えるだけでなく、言葉にできないようなことも考えています。「念じる」は、人間の思考のこうした広がりもカバーしてくれるように思われます。「念じる」といったことも含めた人間の思考能力が、「知恵」です。

「知恵」の働きは結局のところ、「判断」に結びつきます。原始人でも「知恵」を用いて考えます。手に入れた珍しい果実を、食べてよいかどうか考えます。珍iしい果実の場合、経験がないので、判断のためのしっかりした根拠がありません。根拠がなくても、人間は判断できます。「食べてよい」と判断すれば、食べるという行為が行われます。「食べてはならない」と判断すれば、その果実を捨てます。

また人間は学習によって、「知恵」の能力を高めることができます。珍しい果実を食べた者がその場で死ぬと、この新しい情報が根拠になって、「この果実は食べると死ぬ、だから食べてはならない」という知恵がつきます。

古代の一般の人々の知恵の能力は、かなり低いものだったとまずは考えるべきです。「原始」の状態からなんとか抜け出して、暗中模索で「文明」を作っているのが古代です。ある程度以上の社会組織ができますが、初期の頃は、少数の傑出した指導者が、知恵のレペルの低い者たちの集団を何とかまとめて、生き延びるのがやっとといった状態です。

ユダヤ民族の場合、ある程度以上の判断ができるのは、王を中心にした将軍や役人、宗教的指導者である祭司たちといった人々だけでした。民衆から時々、傑出した者が現れると、「預言者」(神から特別な能力を与えられた者)ということになります。

しかし時代が進むにしたがって、人々の「知恵」のレペルが高くなってきます。帝国支配が生じて、広い範囲の平和がかなり安定的に実現したこと、諸文明の高い文化に接する機会があれこれとあったこと、が重要です。特に前六世紀の「バビロン捕囚」において、ユダヤ人たちが、バビロニア帝国の首都バビロンの近くにとどめ置かれ、労役などのために首都に行く機会がかなりあったらしいことは、大きな意味をもったと思われます。
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人間は罪の状態にある

「旧約聖書」100分で名著 より 人間は罪の状態にある 「本格的な一神教」の成立

「契約」の概念を軸にして「神」と「民」の関係を考えることによって、「神」が「義」とされ、「民」が「罪」の状態である、とされることになりました。「罪の状態」にあるということは、「神の前で民が適切な状況にない」ということです。「百円を準備できない」ことにあたります。

「神」が「民」に何もしないことが正当化され、「民」は「神」に何も要求できないことになりました。ヤーヴェ以外の神々との関係は、実質的な恵み(雨、豊穣、など)を期待できることで存在したものですから、これらの神々との関係はなくなります。ヤーヴェからも何も期待できないのですが、「出エジプト」以来の経緯があって、ヤーヴェは民族の公式の神なので、この公式の「神と民」の関係だけは残っています。ヤーヴェとは、実質的な関係は失われているのですが、公式の、形式的な関係だけが残っています。だから「ユダヤ民族の神は、ヤーヅエだけ」ということになります。

旧約聖書では、神と民との関係が男女の愛の関係(夫婦、恋人)の比喩で表現されることが、珍しくありません。この比喩を、ここで用いてみます。

ヤーヴェが何もしてくれないという状態は、結婚している夫婦において、夫がどこかに消えてしまったような状態です。強盗がきて家の半分を破壊しても(北王国の滅亡)、夫は姿を現しません。そうこうするうちに家の残りの半分も破壊されます(南王国の滅亡)。しかし妻は、夫と離婚せず、結婚関係を存続させます。夫は消えてしまい、何もしてくれないけれども、彼は正式には夫であり続けます。ひとりの男性だけが夫です(「一神教」)。

夫が消えてしまったこと、夫が何もしてくれないことについて、妻は、「自分が不適切な女だからだ」と考えます(「罪」)。自分か「不適切」であり、夫は「正しい」ので、彼女が夫を責めることはあり得ません。彼女が夫に何かを要求するということもあり得ません。夫がいないのだから、他の男性と彼女が関係をもつ可能性があるかのようですが、彼女は「不適切な女」なので、他の男性と新たな関係をもつための条件が整っていません(多神教的傾向の消滅)。

こうして「本格的な一神教」が成立します。この立場は、北王国の滅亡(前八世紀後半)の後、南王国が存続していた一世紀半ほどの間に(前六世紀前半まで)、民族全体に浸透して、支配的な立場になります。

前六世紀前半に、南王国はバビロニアによって滅ぼされます。この時もヤーヴェは、自分の民を見捨てた形になりました。しかし、自分たちの王国を失うという不幸にあっても、ユダヤ民族がヤーヴェを見捨てることは、基本的に問題になりませんでした。「本格的な一神教」が成立しているからです。

「本格的な一神教」は、「民が罪の状態にある」ということを前提にしたものです。民にどんな不幸が生じても、それは「神のせい」ではありません。「民が罪の状態にある」という立場が、「神の沈黙」を正当化する構造を作り出しているからです。そのため、何か起こっても、民が神を見捨てることはあり得ません。
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こうして〝神〟が誕生した 「普通の一神教」と「本格的な一神教」

「旧約聖書」100分で名著 より こうして〝神〟が誕生した

神や神々との関連での日本人のあり方が論じられる場合には、「日本人は万物に神が宿っていると考え、八百万の神を信じてきた」といったことが、よく指摘されます。あるいは「神仏」といった表現に見られるように、さまざまな起源の超越的存在ないし力が認められているということも、よく指摘されます。こうしたことに注目して、日本人は「多神教的だ」とされたりします。町を少し歩いただけでも、いくつもの神社や寺、その他の大小の宗教的施設のそばを通り過ぎます。日本人は「きわめて宗教的」だと考えたくなります。

その一方で日本人は全体として、何らかの宗教的伝統に意識的に忠実であるといったことがあまりなく、日本人は「無宗教的」だと指摘されたりもしています。

次のように考えるべきだと思われます。神や神々の領域のことについて日本人は、大事なことだと考えている。神や神々は、価値の高いものとして認められる。しかし神や神々のことについて人間の側が、判断したり選択したりすることは控える。このようなことは、まさに「畏れ多い」ことです。別の表現を用いるならば、神や神々については「祭り上げる」という態度で臨むのが、日本人の基本的な姿勢である。

こういう事情であるために、日本文明においては、さまざまな神々がそれなりに認められる(「八百万の神」「神仏」)、その一方で、神々と人々の繋がりがあまり堅固なものでない(「無宗教的」)、ということになるのではないでしょうか。

簡単に言うならば、神や神々の領域のことについて、日本人は「選ばない」という選択をしている、と言えると思われます。

古代以来の人類の様子を見渡すと、このような「日本人的態度」とは違う態度が、あれこれと認められます。「一神教」とされる態度は、「日本人的態度」の対極の立場にあるものの一つだと言えます。

ある集団(民族や部族、あるいは町単位など)が一つの神だけを自分たちの神だとしていれば、それは「一神教」だ、ということになります。しかしこれだけでは「普通の一神教」であって、それほど特異な態度ではありません。この「普通の一神教」は、集団が自分たちの神だけを神として選んでいる場合です。

ところが、「本格的な一神教」というべき態度があります。集団が一つの神だけを自分たちの神だとするという姿は、「普通の一神教」と同じです。

しかし「本格的な一神教」の場合には、集団が自分たちの神だけを神として選んでいるから「一神教」になっている、のではありません。そうではなくて、自分たちが神を選ぶことはできない、ということが選ばれているために、「一神教」になっています。「自分たちが神を選ぶことはできない」という態度は、右で指摘した日本人の態度と重なるものです。

しかし「自分たちが神を選ぶことはできない」というだけでは、日本文明の場合のように、さまざまな神々が認められることになって、「一神教」にはならないのではないか、と思われます。このように推察してしまうのは、自然で順当なことです。したがって、自然で順当でないことが生じなければ、「本格的な一神教」はあり得ません。

「本格的な一神教」は、古代のユダヤ教で生じました。人類史の中で、このようなことが、ある程度以上の規模で、そして永続的な形で生じたのは、この事例だけです。ユダヤ教は、ユダヤ民族という中規模の民族の民族宗教です。人類全体の立場からは、ユダヤ教で生じた出来事は、それだけで終わるならば、小さな出来事です。しかしユダヤ教で成立した「本格的な一神教」の枠組みを引き継いで、キリスト教とイスラムが生まれました。キリスト教とイスラムは、世界規模の大きな勢力になっています。

したがって、「本格的な一神教」について学ぶことは、世界の多くの人々にとって重要なものとなっている態度の根源を知ることにつながります。

そこで今回は、ユダヤ教において重要なものとなっている「旧約聖書」(「ユダヤ教の聖書」)をひもとき、ユダヤ民族の歴史を考慮しながら、「本格的な一神教」がどのように生まれたか、そこでの「神」とはどういうものかを、考えていくことにします。
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部品表での逆ピラミッド

自由を求める歴史

 やっと、歴史に辿り着いたけど、何を人類は得てきたのか。単なる遺伝子の進化だけなのか。遺伝子そのものは、一万年前と変わっていない。

 自由を求めてやってきたけど、結局、支配されることになった。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教にしても、一神教です。神によって支配されることは、人に支配されるよりもいいぐらいの感覚です。

 人間からの歴史に変えていく時だけど、それを意識しているものはあまりにも少ない。

観念論は荒唐無稽?

 観念論は自分の存在から考えて、世界は自分のためにあるという感覚です。これは考えてない人にとっては、脅威です。また、荒唐無稽です。

日本における一神教

 考えていない人は、一神教に従うことになる。日本の場合はそれさえもない。だから、組織とか政府とか、碌でもないものに従うことになる。

 明治維新以降時は、欧米の一神教をマネしてやってきた時代はよかったけど、昭和の時代になって、方向を失った。そして、どっちへ向かうのか。そのために、私はこの日本に来たような気もします。だけど、そこまでのシナリオはできていません。

支配するものとしての一神教

 ヘーゲルの歴史哲学はキリスト教への思いを哲学的に考察したところから出てきています。だから、神との歴史です。

 マルクスは作ることへ効率化、それを誰が支配するのか。プロレタリアートのような分化したものに権限を与えように妥協したから、無政府状態を作り出して、カリスマに則られた。では、どうしたらいいのか?

 その前に、一つの答えとして、国民国家が出てきた。そこで、法でもって、自由を保証した。と同時に、自由を束縛した。考えるものと従うものに、人間の間で関係を付けた。

 ポスト国民国家を考えるのであれば、その構図は逆転します。

部品表での逆ピラミッド

 その時に、思い出すのは、部品表のシステム設計です。部品の構成は一つの型式からのハイアラキーです。それをハイアラキーだけで見ていると、どうにもロジックが組み立てられなかった。

 部品はそれぞれ、目的を持っていて、その目的の集合関係でもって、構成が決まるという、ヘッドロジックを案出して、ハイアラーキーをロジックに落とすことができた。同時に、個々の部品を作り出す設計者の思いのような曖昧なものをデータ化した。仕様との関係付けを行った。その時には、使用部位のデータベースを作成し、その集合関係でどんな組み合わせも出来た。

 部品構成のピラミッドに対して、逆ピラミッドを作って、それで設計変更時にどこまで、影響があり、どういう目的でされたのか。そこから、車全体を表現している仕様との関係を作って、目次とのロジカルチェックを行った。

 組織というハイアラーキーも個人の持つ能力、目的、生きる力、存在の力、それらの依って、逆ピラミッドを構成できる可能性を考えた。そのためには何が必要なのか。部品表のデータベースをIMSで構築して、逆構成の環境を作ることで、機能と目的がつながった。

 同様に考えると、情報共有しながら、どういう関係になっているかを上から見て行って、その元で下から見ていくやり方。そして、下をヘッドにしたサブ空間を作り出すやり方。

分化と統合の位相化

 これを未唯空間第3章の社会編では、分化と統合の位相化と表現した。それを歴史編でどう作り上げていくのか。存在の力で自由の理念の拡大、これが一番大きく変わるところです。それが分化と統合につながる。そのストーリーでいきます。

 存在の力でサファイア循環する。サファイアが具体的になって、それでグローバルとローカルが集まってくる。

歴史のクライシス

 やっと、歴史のクライシスまで来ました。3.5です。一番のクライシスは、私が観察者として、存在することでしょう。

 私が居なかったら、何も見えないわけですから。そこに在っても。こんな小さなところだけど、クライシスを起こすことで、存在の意味が分かってくるという気がします。
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