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『銃・病原菌・鉄』

『明日使える世界のビジネス書をあらすじで読む』より

1万3000年にわたる人類史の謎

草思社、2000年刊、倉骨彰(訳)

★この本を一言でいうと

 1万3000年以上にわたり異なる発展を遂げた、壮大な人類史!

★この本が名著とされる理由

 世界にはそれぞれの国に「歴史」が存在する。また世界の歴史は他国との歴史であるが、それぞれの大陸によって紡がれる歴史が異なることにスポットを当てた本は少ない。本書ではそれぞれの国の人びとの優位性を排除し、あくまで「大陸ごと」に歴史を紐解くことによって、歴史は環境によってつくられることを解き明かしている。現代社会が築かれた背景を論じた知的興奮を掻き立てられる一冊である。

★繁栄の要因となった「銃・病原菌・鉄」

 タイトルの「銃・病原菌・鉄」はヨーロッパ人が他の大陸を征服できた直接の要因を凝縮して表現しており、具体的には次のことを示している。

  ・銃→重機・鉄製の武器、そして騎馬などにもとづく軍事技術

  ・病原菌→ユーラシアの風土病・伝染病に対する免疫

  ・鉄→製鉄技術

 たとえば、1533年にスベイン人のコンキスタドール(探検家・征服者)であるフランシスコ・ピサロは、インカ帝国を滅ぼし、指導者であるアタワルパを絞首刑に処した。突き詰めるとこの勝者と敗者を分けた要因も「銃・病原菌・鉄」などにある。つまり、スペイン人は「持てる者」であり、インカの人々は「持たざる者」だったわけだ。

 では、どうして「持てる者」と「持たざる者」の差が生まれたのか。異なる歴史の経路を辿る過程で、両者の間には何があり、何がなかったのか。

 本書ではその差異と直接の要因を探り、分析を進めていく。

★各大陸の農耕・畜産の発展

 人類の発展が大陸によって異なると同時に、農業・畜産・文字に至るまでの文化の発展も異なる。大陸ごとに出発した植物や動物は、以下のようなものである。

 <動物>

  ①東南アジア:羊・山羊/②中国:豚・蚕/③中央アメリカ:七面鳥/④アンデス、及びアマソン川流域:ラマ、テンジクネズミ

 <植物>

  ①東南アジア:小麦、エンドウ、オリーブ/②中国:米、雑穀(アワ・コーリャン)/③中央アメリカ:トウモロコシ、イングンマメ、カボチャ類/④アンデス、及びアマソン川流域:ジャガイモ、キャッサバ/⑤アメリカ合衆国東部:ヒマワリ、アカザ

  狩猟採集生活に終止符を打ち、食糧生産を先んじて始めた人々は、他の地域より一歩先に銃器や鉄鋼製造、各種疫病に対する免疫を発展させているという。

  これが「持てる者」と「持たざる者」を誕生させた要因の一つである。
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『スターバックス成功物語』

『明日使える世界のビジネス書をあらすじで読む』より

日経BP社、1998年刊、小幡照雄/大川修二(訳)

★この本を一言でいうと

 シアトルの小さなコーヒー屋さんが原点。「スターバックス」のCEOが語る、成長と成功の記録

★この本が名著とされる理由

 シアトルでたった6店舗だったスターバックスが北米で1400店舗、さらに世界進出させた原動力は「このコーヒーの味をより多くの人に知ってもらいたい」という、ひたむきで真っ直ぐな想いである。受け入れるべき変化に対応しつつも、目指すピジョンや譲れない信念を曲げずに進むことは想像以上に難しい。1998年に刊行された本だが、著者が語る言葉は今でも色初せない情熱に溢れている。

★スターバックスの成長秘話

 著者とスターバックスとの出会いは1981年、当時、別の会社の営業本部長をしている時にシアトルの小さなコーヒー豆の小売店が大量のコーヒーメーカーを購入したのに興味を持ったことがきっかけである。

 当時のスターバックスはシアトルにわずか数店舗を展開する規模だったが、ヨーロッパ風の深煎りコーヒーの味に惚れこんだ著者は、3人の創業者と結婚したばかりの妻を説き伏せて転職した。

 ここから現在までの成功物語がスタートするのだが、「著者がスターバックスを買収してCEOになるまで」「株式公開以前」「株式公開後」の三部構成で、それぞれの時代に起きた出来事が当事者の視点で綴られている。

★「従業員」ではなく「パートナー」へ

 著者の父親はブルーカラーの労働者として職を転々とし、年収が2万ドルを超えることがなかったという。著者自身、国営低所得者共同住宅で育ったことにコンプレックスを抱いていた時期もあったようだが、同時に父を深く尊敬していたと述べている。

 少年時代の私は、いつの日か自分が会社の経営者になろうとは夢にも思わなかった。しかし、何かできる立場になったときには決して人々を見捨てるようなことはしないと固く心に誓っていた」と言うだけあり、従業員の福利厚生やストックオプション制度には積極的である。

 著者は、「小売業やレストラン業にとって、顧客サービスは死活に関わる問題である。それにもかかわらず、これらの業界の給与や福利厚生の水準は全産業中で最低というのは、なんとも皮肉な話だ。この業界の社員は会社の中核を担っているだけでなく、会社の顔として世の人々と接する存在なのだ。売上金はすべて彼らの手を通さなければならないのである」と述べている。

 著者は、この言葉を理想論として語っていない。スターバックスでは週20時間勤務のパートでも健康保険が適応されているし、全社員が基本給に応じた自社株購入権(ピーンストック)が与えられ、こうした取り組みが全社員に貢献の実感を与え、労働意欲の向上と信頼関係に繋がり、今日の成功の基盤となったのである。

 企業にとって、そこで働く人々は最大の資産である。経営者やリーダーには利益を追求するだけでは得られない教訓を本書から学んで欲しい。
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池田晶子 「私」とは考える精神である

『池田晶子 不滅の哲学』より

最晩年に行なわれた講演で池田晶子は、魂の問題にふれながら、「人生の味わい」をめぐる発言を残している。

 たぶん年齢的なこともあるのかなという気もしますね。四十半ばまで来まして、やっぱりいろいろありますし、人生の味わいというか……、そう味わいですね、味わいとしか言えないな。そういうものが非常に面白く感じられるようになってくると同時に、どうも魂の事柄を考えたくなってきたんです。 (『人生のほんとう』)

ここでは一言も記されていないが、味わうべき何ものかである、と池田が言っているのは、わが身とその生涯である。かつて池田は、重要なのは言葉であって、わが身はその通路に過ぎないと言ったりもしていた。だが、そうした思いに変化が現われてくる。「味わい」を感じるのは、魂以外ではあり得ない、日増しに魂が身近に感じられ、魂を考えざるを得ない毎日を送っている、というのである。魂で味わう、というより、魂を味わう、と池田は言う。

かつて、世界に存在するのは、無数の魂ではなく、「世界霊魂」ともいうべき一なるものである、と考えた哲学者がいた。神秘哲学の巨星プロティノス(二〇五頃~二七〇)である。

存在には、一者→叡知→霊魂→自然→質量と、五つの階梯があり、万物は一者から、それぞれの段階を経て「流出」すると考えられた。いずれの段階にも一者の働きが「分有」されている、その働きこそが「存在」それ自体である、万物は、一者の力を分かたれることによって存在している、とプロティノスは考えた。一なるものの中にはすでに多があり、多の中にも一がある。彼の思想には、仏教の華厳哲学「一即多・多即一」の世界観がそのまま生きていることから、学者のなかには、彼の生涯のどこかで、事実として仏教との交流があったことを指摘する者もいる。

プラトンヘの言及にくらべれば、池田がプロティノスにふれた言説は少ない。だが、次の言葉を読めば、その影響の深さは疑い得ない。「『精神世界』と称して騒ぐのは、間違っても世のためにならない。なぜなら、『精神世界』なるものは、世界のどこにも存在しないからである。世界はもとから、『世界精神』でしかないからである」(『残酷人生論』)。ここでの「世界精神」は、先に見た「世界霊魂」と同義である。

この一節のほかにも『考える人』の「神秘主義」の章、その前半はプロティノス論である。その一文も、従来の哲学研究者とは異なる場所からの「読み」に貫かれていて、折にふれ、池田がプロティノスの作品に親しんでいたことがわかる。池田は、プロティノスの言葉を「美しい」という。彼女はプロティノスの言葉をいくつか引いているが、次の一節は幾重にも重なる意味で、彼女には「美しい」と感じられただろう。池田が引いたままに記してみる。

 われわれがここに説いていることは別に新しいことではないのであって、今ならぬ昔においてすでに言われたことなのである。ただそれはすっかり明けひろげては言われなかったので、今ここに説かれているようなものが、それの解説として出て来たわけなのであるが、ここに説かれている思想そのものが昔からあったということに関しては、プラトンその人の書物が証拠となって、われわれの説くところに保証を与えてくれるのである。(『考える人』)

「読む」とは、池田にとって、それを書いた人を魂に感じることでもあり、また、その人を扉に、彼方なる世界をかいま見ることだった。「ここに説いていることは別に新しいことではない」、「今ならぬ昔においてすでに言われたことなのである」、それがプロティノスの立脚地だった。彼はその場所をけっして離れない。プロティノスは、新しい思想をひっさげて登場したのではない。むしろ、「古い」哲学をよみがえらせようとした。真に古いものは、けっして古びることはないとするプロティノスの態度に、池田は強く共鳴する。
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池田晶子 言葉と宇宙

『池田晶子 不滅の哲学』より

 哲学は、美醜、善悪、優劣などの相対性を超える「統一性」を志向する。哲学とは「統一性」へと還ってゆく道である。かつて哲学は、聖なる学問だった。学問とは知識を積み重ねることではない。人間によって一歩一歩、歩かれることによってのみ開かれてゆく道だった。この世にあらわれる「意味」を道しるべに、混沌の深みから、「統一性」に帰還しようとする、その営みそのものが哲学だった。同じことが、リルケにとっては「詩」だったのである。

  死とは私たちに背を向けた、私たちの光のささない生の側面です。私たちは自らの存在世界が生と死という二つの無限な領域にまたがっていて、この二つの領域から尽きることのない糧を摂り込んでいるという、どこまでも広大な意識をもつようにつとめなくてはなりません。〔中略〕真実の生の姿は、〔生と死の〕二つの世界を架橋し、また、貫いていて、そこには終わりなき「血」の循環があるのです。この世というものがなければ、あの世というのもありません。あるのはただの大いなる統一体だけで、そこには私たちを凌駕する存在、「天使」が住んでいるのです。(『リルケ書簡集 1910-1926』、筆者訳』

 消滅としての死は存在しない。存在は、「死」のあとも「存在」する。生と死を分けているのは言葉である。あるのは「存在」ばかりである、とは池田晶子の本を開けば、どこでも語られている主題である。飽かず、彼女はこのことを語った。

 人は、生と死を分けることに疑問を感じない。生は理解できるが、死は不可知であると言って終わりにしてしまう。果たしてそれでよいか。私たちが「生」と呼ぶあり方は、「死」を完全に離れているものなのだろうか。「死」とは、「生」から消滅への道行きなのだろうか。「いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」といった『論語』の言葉は、こうした地平でもう一度読まれなくてはならないのではないだろうか。人が、生のみを絶対視し、死を疎ましく言うのを止めるまで、「巫女」にコトバは降り続けた。なかでも次に引く、ソクラテスの口を借りて、彼女が生と死を語るところは印象的だ。そのままリルケに聞かせたい。ここで池田が言う「存在」とは、リルケが先に言った「統一体」であり、それは先に、彼女が小林秀雄に向かって書いた「統一性」と同じものを指している。

  ソクラテス 存在するということは、無ではないということなのだ。存在しないという ことは、存在しないのだ。

  検死官 死後の世界は存在すると。

  ソクラテス 違う。死がないのだから死後もない。世界はここに存在するのだ。

  検死官 やはり世界は生きている間だけ存在すると。

  ソクラテス 違う。存在するということは生存するということではない。死がないのだ から生もない。 (『無敵のソクラテス』)

 詩作を離れたリルケは、病みがちな、静かな、しかしどこか人を魅惑する男だったが、詩人リルケは、現世の悲しみと絶望に意味と光を掘り当てる、力強き魂の穿暫者である。リルケの周辺にいた人々は皆、詩人が切り開く荘厳なる世界に、戦慄にも似た感動を覚えた。その言葉の先に、未踏の場所が開かれるのを見た。リルケは旅に生きた詩人だった。人々は、それぞれにできる方法で、詩人リルケを擁護した。ある富者は、城を自由に使うことを許し、ある者は、詩が書けないとなげく彼に、幾度も書簡をおくって励ましつづけた。それはあたかも、聖地を守るかのようでもあった。喩えではない。ライナー・マリア・リルケとは、詩人の名であるとともに、この世に開かれた、「宇宙」へとつながる「生ける場所」だったのである。

 同じことは、池田晶子にもいえる。池田晶子を「場所」だと思ってみる。彼女によって書き続けられた言葉を、その場所でさえずる鳥、芽吹く植物、流れる風のように読む。読むというよりも、その場所にたたずむように、言葉に向き合う。すると言葉が、静かに、しかし確かに、つぼみが開いて花になるように、コトバヘと変じていくのを見るだろう。
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生活を変えよう

生活を変えよう

 木曜日から少し、生活を変えます。木・金はパートナーは居ない。とりあえず、歩きながら考えましょう。木曜日はサウナ後に元町から歩きます。

 土日の運動。それと本に偏りすぎているインプット。日曜日の午前中は取りあえず、読書に変えています。土曜日の本の処理が早くなったのは確かです。同じようなことは全てスポイルして、新しいことに専念させます。

 朝と昼と夕方の読書ができたかどうかをスケジュールに反映させます。あとは、スタバでの出来事とパートナーの動向です。何をしたかどうかを今日から書き出します。

スタバの握手会

 やはり、Iさんは最高です。気持ちが通じる。シンクロする。何よりも思いやりがある。もっと、会えてよかったを出しましょう。会えるのは、そんなに多くないんだから。

地域インフラ

 インフラの維持・更新費用は2060年までに190兆円。2037年までに財源不足になる。インフラの16%にあたる30兆円は更新できない。地域でのインフラの発想を変えていく時です。優先順位は地域で決めていく。そのための財源は自分たちで考える。地域の知恵を使うこと。コンパクトな街を目指す。トンネルとかは国にやらせるけど。

 道路を完全に三分割する。クルマの幅を狭めることで、可能です。自治体間の連携も市民主体で行っていく。A市にあって、B市にない。B市にあって、A市にない。それならば、A市とB市が連携すればいい。市立図書館で形できているけど、市民の意識が付いてきていない。

 わが町の範囲を広げる発想を市民が持つことです。行政のつながりの前に、市民主体の連携活動です。

 図書館の広域サポートをお互い様にすることです。その時に、クラウドとか電子書籍とか情報共有を最大限に使っていけば、企業とかマーケティングを入れ込むことができる。特に財政が豊かなところは、偶々であると同時に、豊かであることから、社会に先行する責任を持ちます。

 自治体間連携には、物理的な近隣だけでなく、バーチャルでの連携を含みます。トルコの町とギリシャの町のように、価値観でつながっていきます。1700の自治体間連携、そのベースになる自治体間競争。

行政からの協働

 協働が成立する背景は住民の社会参画意識・意欲、企業の社会貢献志向の高まり。これらは個人と組織の存在の力そのものです。

 手伝ってよ!という、行政の下請けでなく、市民主体にしないと、行政自体を変えられない。あくまでも行政そのものを変えるのが目的です。新しい行政のような隷属的なものではない。行政が市民や企業の意欲を刺激することはできない。逆でしかありえない。

 自治体における職員のモチベーションの低下。昇任試験を受験しない理由は「仕事に魅力を感じない」「重責に耐えられるか心配」「自分の時間が少なくなる」がそれぞれ半数が上がっている。

 個人の気概と組織のやりがいをどう同期させるのか? 個人の成長が組織の成長につながらなくてはならない。そのためには、市民を見た個人が重要になる。それらはすべて、存在の力そのものです。個人と組織ではその性格は異なります。

遺伝子の拡張

 それにしても、市民は地域のことをふつう考えているのか。遺伝子からすると家族の範囲ぐらいしか考えていない。もっと、広範囲なところについて、この一万年、ほとんど変わっていないと言われています。この部分を変えていかないといけない。では、自分はなぜ、生きているのか。

 それをバーチャルでやると、地域はあまり関係なくなるけど、顔を見合わせることができる。エコットでの市民参画を考えた時に、市レベルで有意の人が集まって活動した後に、地域の戻って、核になるというシナリオがあった。
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