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その場しのぎの対応に終始する《お調子者上司》

『上司になってはいけない人たち』より 上司になってはいけない人たち

なぜ責任感が伴わないのか

 意図的に逃げ言上をつかわなくても、結果として逃げ言上のオンパレードになっている人もいる。

 部下が何かアイデアをもってくると、「これはおもしろい。私が部長にかけあってあげるよ」と愛想よくいう。相談事をもちかけると、「きみの気持ちはよくわかる。あとで考えておこう」と調子がよい。

 しかし部長にかけあうことはなく、あとで考えておくこともしない。はじめから相手を欺くつもりはないのだが、対応がいつも「その場しのぎ」に終始する。根本的に責任感が欠如しているのだ。どうしてこうなるのか。

 かつて筆者の職場の先輩にもいた。見た目にはとても感じがよい。「ほかにやることがある」と煙幕を張るタイプは、ふだんから不機嫌そうな顔をした人が多いものだが、「その場しのぎ」のタイプはそうではなく、快活で愛想がよい。だから、しばらくのうちは頼りがいのありそうな人に見える。

 そのうち、どうもおかしいという気がしてくる。「私に任せなさい」と快く請け合ってくれる割に、後のフォローがないからだ。

 こちらから尋ねると「いやあ、悪かった」と頭をかき、なにか弁解めいたことをいう。ではよろしくとお願いするのだが、やはり梨のつぶて。そして数か月後、たいてい「やってみたけど駄目だった」式の、竜頭蛇尾に終わる。

 ひとことでいえば、心が弱い。明るく元気にふるまってはいるものの、どこかいつも怖じ気づいているのだ。人との争いを好まない、というより、極端に恐れる。ふつうの議論や意見交換ですら避けようとする。だから人が何かいうと、反射的に愛想よくふるまってしまう。ノーとは決していえず、常に相手の気持ちにすり寄るような発言になる。ある意味では痛々しく感じるほどだ。

 その場を丸くおさめることばかり配慮する背景には、気質や性格だけでなく、育った環境が大きく影響している場合も少なくないようだ。争いごとが絶えない家庭環境やいじめの体験など、他者とのスムーズな交流を妨げる要因が過去に見受けられる。

 その場しのぎの対応とともに、責任感の欠如もあげられるのは、人に対する不信感が根底にあるのかもしれない。だから、請け合ってもそれを誠実に実行する意欲が伴わないのである。個人として能力を発揮することはあっても、人の上司となるにはふさわしくないタイプだといわざるをえない。

思いつきでしやべる上司の心理

 これとタイプは異なるが、同じように、その場かぎりの発言に終始する人たちがいる。自分の定見というものがないにもかかわらず、いかにもありそうに発言する。

 かつてのベストセラー『上司は思いつきでものを言う』のタイトルどおり、まさに発言の大半が「思いつき」の域を出ていない。そんな上司がかなりの割合で見られるのは、残念ながら事実だ。

 これも冒頭の座談会で引用された例だが、ある会社に「織田家康」と鄭楡される営業課長がいた。当人の名字も「おだ」といったが、織田信長と徳川家康をかけ合わせたものである。歴史読み物が好きな人だったが、時期によって読んでいるものなどに感化され、その都度いうことが異なる。休憩時間のおしゃべりなら問題はないが、部下への説教に表われるのだ。

 「もっと粘り強く交渉したまえ。『鳴かぬなら鳴くまで待とう』の家康の精神だよ。きみの仕事はどうもおっちょこちょいでいかん」

 「やるときはバーッと一気呵成にいかなきゃ駄目だ。石山本願寺を焼きはらった信長の戦法だな。ぐずぐずしてちゃおしまいだ。もっと大胆に攻めろ」

 「突撃すればいいってもんじゃない。おまえのはただの自爆じゃないか。『敵を知りおのれを知れば百戦危うからず』。もっと情報を駆使して負けない方法を考えろ」

 こんな調子で、出典はなんでもあり。権威づけのためにさまざまな名前が出てくる。歴史に学ぶという高尚なレペルではない。

 人を見て法を説くならコーチングの精神と合致するともいえるが、この人の場合はそうではなかった。同じ相手に対しても、その場そのときで一八○度異なった説教をするのだ。即興で歴史ものをアレンジした論理を組み立てる能力には秀でていたが、本質は「思いつきでものをいう」のと変わらない。
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「ゆとり教育」批判と「ゆとり教育」の後退

『日本教育史』より 「近代教育」の混迷-国家統制と市場原理 「ゆとり教育」の推進とその問題

「ゆとり教育」は、自ら学ぶ意欲や主体的に学ぶ力を育成することを重視することで、問題解決学習を基軸として展開された戦後新教育と近似する教育上の性格を有していた。そして戦後新教育がやがて学力低下の批判に晒されたように、「ゆとり教育」批判もその論拠の一つとされたのは学力低下の問題であった。

二〇〇二年度からの完全週五日制や授業時数の大幅削減、あるいは教育内容の三割削減などの施策をめぐっては、それが子どもや若者の学力低下を招きかねないことを危惧する声が寄せられていた。また文部科学省も`そうした声に応えるかのように、これらの施策が実施される直前の二〇〇二年一月に「確かな学力の向上のための二〇〇二アピール『学びのすすめ』」を発表し、「新こ字習指導要領」が「確かな学力」と「豊かな心」を養うために実施されるものであることを訴えた。また二○○三(平成一五)年一二月には、前年度から実施されたばかりの「学習指導要領」を一部改正し、各学校は、子どもの実態に応じて、「学習指導要領」に示されていない内容についても、指導することが可能であることを明確にした。

そうした動向の中、二〇〇四(平成一六)年一二月に、OECD(Organisation for Economic Co-operation and Development)がその前年の二〇〇三年に実施したPISA(Programme for International Assessment)調査の結果が公表された。二〇〇三年実施のPISAは、四一カ国・地域(OECD加盟三〇カ国、非加盟一一カ国・地域)の約二七六、〇〇〇人の一五歳児を対象に、数学的リテラシー・科学的リテラシー・読解力の主要三分野に加えて、問題解決能力も調査したが、その結果、日本は調査対象の国と地域の中で、科学的リテラシーで第二位(二○○○年の前回調査では第二位)、問題解決能力では第四位(前回は未調査)となったものの、数学的リテラシーは第六位(前回は第一位)、読解力は第一四位(前回は第八位)と下がり、さらに平均得点も参加国平均の五〇〇点を下回った。

さらにPISA発表の直後には、IEA(国際教育到達度評価学会)が二〇〇三年に行ったTIMSS(Third Internatioal Mathematics and Science Studies)調査の結果も公表され、その結果、中学校数学では日本は四五力国中第四位(一九九九年実施の前回は三八力国中第四位)、中学校理科で第六位(前回は第四位)という数字が示された。数学と理科の到達度評価については、第一七章の三にて言及したように、かつて日本が最上位を占めていた(中学数学は一九六四年の調査で第二位、一九八一年の調査で第一位、中学理科は一九七〇年の調査で第一位、一九八三年の調査で第二位)こともあって、この数字も関係者に少なからぬ衝撃を与えた。

これらの調査結果は、これをマスコミが大きく報じたこともあって、この国の教育政策の針路にも多大な影響を及ぼすことになった。すなわち、翌二〇〇五(平成一七)年二月に開催された中央教育審議会において、文部科学大臣は「学習習指導要領犬の見直しを諮問した。文部科学大臣は、すでに二〇〇三(平成一五)年五月に「今後の初等中等教育改革の推進方策について」を中央教育審議会に諮問していたが、それに加えて、あえて「学習指導要領」改訂と「ゆとり教育」見直しの方針を明らかにしたのであった。こうして、二〇〇八(平成二○)年一月に中央教育審議会から「幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善について」が答申され、それに基づいて同年三月に小・中学校の「学習指導要領」が改訂されることになった(施行は小学校が二〇一一年度、中学校が二〇一二年度から。高等学校は改訂が二〇〇九年三月、施行が二〇一三年度から)。

この「学習指導要領」における大きな変更点は、第一に、従来の「ゆとり教育」路線の見直しであった。もっとも「新・学習指導要領」では、改めて「生きる力」を育むことが理念として謳われており、その限りでは従来の教育方針を踏襲しているといえなくもない。だが、そこでは、「生きる力」は「ゆとりある生活」を通して育まれるという従来の認識に代わって、それが知識・技能の習得や思考力・判断力・表現力などの育成と密接に関わるとの認識が示された。実際、「ゆとり教育」を象徴する「総合的な学習の時間」は、小学校についていえば、それまで中・高学年の四年間トータルで四三〇時間が組み込まれていたものが、二八〇時間に大幅削減された(小学校六年生では年間一一〇時間が七〇時間となった)。これは明らかに、「ゆとり教育」路線からの脱却を物語るものといえよう。

第二に、これも従来の方針からの転換を象徴するかのように、授業時数の増加が図られた。例えば小学校では、国語・社会・算数・理科・体育の授業時数がI〇%程度増加されるとともに、週当たりのコマ数も低学年で週二コマ、中・高学年で週一コマ増加されることになった。小学校六年生でいえば、年間総授業時数がそれまでの九四五時間から九八〇時間に増加され、また教科では算数が一五〇時間から一七五時間、理科が九五時間から一〇五時間へと増加された。

第三に、教科内容が系統学習の観点から見直された。上記のように理数系の教科は授業時数の増加が図られたが、それとともに反復指導や課題学習の充実が謳われた。また、一方で国際化への対応、他方で日本の伝統・文化への理解が改めて図られた。小学校に外国語活動が導入されることになったこと、中学校にて武道が必修化されたことなどは、各方面から様々な論議を呼んだ。
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池田晶子論

存在を認める

 あなたが私の存在を認めてくれたから」と言ったら、「初めて、私の存在を認めてくれた」と言われた。あの優しさは何だろう。

 出待ちしている時に、なかなか出てこなかった時に、皆から呼んでもらった。その時に、よっぽど、替わろうかと思ったけど、やっと出てきた。その時に言われたことに感動した。「皆が、私が会うことを楽しみにしているから」と言ってくれた。

開店前の緊張感

 豊田市のスタバから松坂屋の2階フロアが見える。9:59は開店前の緊張感に溢れている。貴金属売り場に朝一番に客が来ることはないけど、緊張して、待っています。

 定点・定時観察しましょう。

池田晶子論

 池田晶子論を読んでいるけど、あまりピンとこない。私の中の思いは「宇宙への旅人」「家族は関係ない」「生きることは考えること」の概念です。これらが出てきません。

 考えることを特殊な言葉にしたのは池田さんです。「宇宙の旅人」はどこから出てきたのかを図書館の本で調べましょう。

 「宇宙と言葉」を読んでみたが、は宇宙的あ考えがないみたいです。全て言葉です。今の哲学は言葉に頼り切っています。伝わらないものはいくらでもある。

コミュニケーションの見直し

 「握手」からコミュニケーションを見直すことができるかもしれない。

 お客様をファンにする仕事力からすると、なぜ、スタバのスタッフに惹かれるのかを分析すれば分かります。受け答えに本質を感じさせます。

 型どおりでないのは確かです。服装とか天気のことはあまり話さないです。自分のこととか、私のこととかを話します。お互いの関係で話します。一番は、存在を認めるということです。この世界において。存在を認める相手はほとんど居ないです。

 スタバでのおもてなし力は簡単です。よく選んでくれました、よく来てくれました、の思いを込めることです。これはマクドナルドでは発揮できる力ではない。

 だから、スタバを経験してきた女性とマクドナルドを経験した女性のいずれかを選ぶかというと、スタバになるのです。

 スタバでは、決して、注文を急ぎません。お客が何かを話したがっているのだったら、それを聞きます。そして、行動します。

先読みするには

 「先読み仕事術」を読んでいるけど、先読みのために、どういう情報を得るのか、自分自身をどう考えるのか、その意味では方向付けをどう持つのかですね。先読みした結果をどう生かしていくのか、周りにそれがなかった時にどうするのか。肝心なところが抜けている。

車に対するクレーム対応

 車の在り方に対してのクレームは多いところです。なぜか、それをユーザーがかばいます。だから、変わらないです。変えるには人の心を変えること、自分の生活を変えること。

読書について

 難読の本です。自分の読書法を求めます。それも全て、否定的に。本というのは、全てのきっかけに過ぎない。難解のトリガー、ほとんどが反発するものです。

 特に本を買うことほど、馬鹿げたものはないです。豊田市の本屋には、私が関心を持てるような本を売っていません。

 図書館で自分の役にたった本、考え方を変えた本が本屋にあったことがあるか。モランの「複雑性とは何か」一冊だけです。それも県立図書館で見てからです。

 ちなみに、この本はアメリカにはなかった。ロサンゼルス公共図書館で司書に調べてもらいました。方法としての「複雑系」はあるけど、社会学としての「複雑性」には関心がないみたいです。

 私の速読は、17000冊の上に成り立っています。見出しを見ただけで察しがつきます。それが否定しているのか肯定しているのか。そこからロジックが分かります。文学の場合も同じように見ているから、よく分からないです。

存在の力を活かす

 レジリエンスにしても、もっと重要なのは存在の力です。自分の強みを活かすというよりも、自分の存在そのものを活かす。唯一であることならば、全てに勝てます。最強です。

 パートナーに感じるのはその部分です。存在をキーワードにできる人間です。Iさんとは存在という言葉をそのまま使えるようになりました。だから、握手です。存在の力を使えば、宇宙が相手です。だから、会社とか職場の問題はゴミみたいなものです。

アンドロメダ銀河

 アンドロメダ銀河、隣の銀河は天の川銀河よりも星の数が多い。地球からの距離はおよそ250万光年で、肉眼で見える、最も遠い天体。

 天の川銀河に近づきつつあり、数十億年後には、衝突する。
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