未唯への手紙

未唯への手紙

日本の特殊性

2014年05月14日 | 4.歴史
日本の特殊性

 明治維新は日本のエリート層のクーデターであった。フランス革命を大きく異なる。ブルジャジーの台頭ではない。日本は連続性の中に生きているけど、今後はどうなるのか。

 西洋のパターンは日本の国民国家にとっては、コンパクトにできる最大のモノであった。中央集権にするために。

 西洋とかアメリカに追いつくのはいいけど、次をどうするかが日本にはない。今度こそ、うまくやらないと本当に先がない。。そして、世界の流れを変えさせるのが、日本の役割です。

 それを「実在的危機」というらしい。この会社も方向を失っています。連続性の上だけしか成り立っていない。その先がどうなるか、全然見えていない。

 環境社会になるに当ってはそれではすまないです。クライシスに対して、どう対応させていくのか。遺伝子を変えるときです。

 家族という範囲しか見えていない遺伝子をアジアを超えて、人類という範囲まで見ていくという遺伝子に変えていく。そうでないと、この会社の25兆円の意味がない。

 日本の特殊性を未唯空間のどこにおくのか。多分、歴史編でしょう。歴史の考察でも、日本というのは、特殊なものになっている。国の連係でも独りぼっちです。

 共有意識などがほとんど欠落している。世界の周縁で生きているだけです。複雑性によると、変革は特殊な、周縁部から起こるとされている。

 民主主義は国民国家に対して、行われる。文明国家である、中国は民主主義が成り立たない。

存在の恐怖

 夜は存在の恐怖におびえていた。2時間続いたが、知らない間に寝ていた。だから、また、再生です。リボーン。

中国を中国たらしめる八つの特色

2014年05月14日 | 3.社会
『中国が世界をリードするとき』より 中国を中国たらしめる八つの特色

第一に、中国は現実には従来的な意昧での国民国家ではなく、文明国家である。国民国家を自称してはいるが、中国が国民国家という扱いに甘んじたのは、一九世紀後半以来、西洋列強に対して弱い立場に立たされた結果である。

第二に、中国の対東アジア関係においては、国民国家体制に代わって朝貢時代の過去がしだいに影響を及ぼしつつある。朝貢国家体制は二千年にわたって存続し、ようやく一九世紀末に姿を消したにすぎない。そしてその後も完全に消えたわけではなく--長い歴史のなせるわざで、惰性や慣行として--新たに支配的制度となったウェストファリア体制の下に埋もれる形で存続した。

第三に、中国特有の民族・人種観というものがある。漢族はみずからを、中国全人口の九〇パーセント以上を占める単一民族と考えている。こうした認識が成り立つのは、中華文明の悠久の歴史の中で、数限りない民族がしだいに混血し、融合したからである。中国統一が神聖にして不可侵であることは、漢族はひとつであるという強い自己認識に裏打ちされている。

第四に、中国の国家運営は現在も将来も他の国民国家とは大きく異なり、大陸規模のスケールでなされる。大陸規模といえる国はほかにも四つほどある。米国は、面積のうえでは中国にわずかに及ばないだけだが、人口では四分の一にすぎない。オーストラリアは大陸国で、面積は中国の約八〇パーセントだが、人口はやはりたった二一○○万人とマレーシアや台湾より少なく、その大部分が沿海部に住んでいる。ブラジルの国土は中国の約九〇パーセントだが、人口は一億八五〇〇万人と少ない。

第五に、中国の政治体制のあり方はひじょうに特殊である。西洋の経験とくにヨーロッパの経験とは異なり、中華王朝は教会や商人層といった競合する社会組織や利益集団との間で権力分担を余儀なくされることがなく、その必要もなければそう要求されることもなかった。中国には過去千年の西洋社会でみられたような組織的宗教が存在せず、また中国の商人層も、組織化による利益追求よりはむしろ個人的な働きかけによって便宜を得ようとした。王朝時代・共産党時代を通じて、国家がほかの社会勢力と権力を分かち合うことがまったくなかった。国家のみが、最高権力として誰からの反対も受けずに社会を支配したのである。

第六に、中国近代は東アジア諸国の近代と同じく、経済発展の速さにおいてきわだっている。西洋の近代経験とはある意昧でひじょうに異なる形で、過去と未来が現在の中に共存しているのだ。第5章ではアジアの虎諸国について、時間が圧縮された社会だと述べた。これらの国の人びとは急激な変化に慣れているので、西洋とくにヨーロッパ諸国よりも、新しい事物や未来というものに直観的に親しむことができる。

第七として、一九四九年以来、中国は共産党支配体制下にある。皮肉なことに、おそらく過去半世紀でもっとも重要だと思われる二つの年度は、一見すると矛盾するような二つの事件が起きた年である。すなわち、ヨーロッパ共産主義とソ連圏がともに消滅した一九八九年と、史上にもっともめざましい経済発展の始まりとなったのみならず、それを共産党が主導したという点でも注目すべき一九七八年である。一九八九年はひとつの大きな時代の終焉であり、一九七八年はそれよりさらに重要な時代の始まりである。

第八に、中国は今後数十年にわたって、先進国と発展途上国の性格を併せ持つことになる。グローバル大国としては異例だが、これは国が大きいので近代化の進展に時川がかかるためだ。中国の発展は大陸そのものの発展なので、そこには一国家どころか大陸的規模の格差がともなう。その結果、農村の後進性が近代化を抑制するとともに相互に作用しあい、そうして生まれた近代化の「ずれ」が、経済や政治や文化の上に数々の効果をもたらす。中国近代においては、国民の多くが、これからもたがいに異なる歴史上の時代を生きていくのだという現実を否定することはできない。このために中国は、将来も長きにわたって過去の歴史と向かい合うことになる点はすでに指摘した通りだ。しかしこのことはまた、国益ならびに対外関係についての中国の考え方にも影響を与えずにおかない。

グローバル大国としての中国 アフリカ

2014年05月14日 | 4.歴史
『中国が世界をリードするとき』より グローバル大国としての中国

中国にとってアフリカの魅力は一目瞭然である。経済成長を続けるにはさまざまな資源が必要なのだ。二〇一〇年の全世界の原油消費のうち、中国が占める割合は一〇パーセント、亜鉛では四三パーセント、鉄鋼四二パーセント、鉄鉱石四四パーセント、鋼三九パーセントであった。第6章で述べたように、中国はレアメタルを除いては天然資源に乏しいため、海外からの輸入に頼らざるをえない。これに対してアフリカは資源がひじょうに豊富なうえ、近年さらに石油や天然ガスが発見された。さらには、米国は中東に多大な関心を寄せるいっぽう、どちらかといえばアフリカを軽視し、あまり注意を払わなかった。

二〇〇六年、胡錦濤のアフリカ諸国歴訪によってアフリカ・中国関係の新たな時代が公式に幕を開け、一一月にはアフリカ四八カ国の首脳・政府高官が訪問して北京で開かれた最大規模の首脳会議が実現した。温家宝はこのとき、中国・アフリカ間の貿易額を二〇一〇年までに倍増させると表明した。ほかにも中国は、三年間のアフリカ支援倍増、中国企業のアフリカ投資促進・支援を目的とする五〇億ドル規模の「中国アフリカ開発基金」設立、後発発展途上国から中国への無関税品目を一九〇から四四〇以上へ拡大すること、今後三年間で借款三〇億ドルとバイヤーズ・クレジットニ○億ドルを供与すること、○五年以前に返済期限を迎えた無利子債務の帳消し、今後三年間でアフリカ人専門家一万五〇〇〇人に研修をおこなうこと、中国人農業専門家一〇〇人のアフリカ派遣、三〇の病院建設、一〇〇の学校建設、中国政府奨学金アフリカ人学生枠の四〇〇〇名への倍増を約束した。会議中には、エジプトのアルミエ場建設、ザンビアの銅開発プロジェクト、南アフリカの鉱山開発をはじめとする大規模契約が結ばれた。その後これらの目標は実現をみた。中国・アフリカ間貿易額は二〇〇〇~○八年の間に一〇億六〇〇〇万から一〇六八億四〇〇〇万ドルヘと一〇倍に拡大し、○九年には温家宝が三年間で一〇〇億ドル(すなわち○六年の倍にあたる)のさらなる低利借款を約束した。そしてまたもや多くの契約が結ばれた。

現在、アフリカの対中輸出品目のうち半分以上を占めるのは原油である。アンゴラは中国にとってサウジアラビアに次ぐ第二の原油供給国であり、三位のイランを大きく上回り、中国の原油輸入量の一六パーセントを占める(二〇〇九年)。中国はアルジェリア、アンゴラ、チャド、スーダン、赤道ギニア、コンゴ、ナイジェリアにも石油権益を持ち、とくにアンゴラ、スーダン、ナイジェリアでは採掘権を獲得した。スーダン産原油の半分が中国向けに輸出され、中国の原油需要の六パーセントを担っている。中国はすでに輸入原油の三〇パーセントをアフリカに依存しており、この数字はナイジェリアのニジェール川デルタ地帯での採掘権獲得によってさらに拡大する見込みだ。

過去一〇年というもの、中国のアフリカからの輸入額は、鉄鉱石と金属を除く主要一次産品すべてにおいて、ほかのどの地城よりも速いペースで拡大した。例えば中国の輸入木材のじつに二〇パーセントをアフリカ産が占める。二○○八年、アフリカにおける中国の主要な貿易相手国は順に、アンゴラ、南アフリカ(アフリカ大陸最大の経済国)、スーダン、ナイジェリア、エジプトであった。二〇〇九年、中国は南アフリカの貿易相手国第一位となり、また最大の輸出市場ともなった。二〇一〇年、アフリカの対中国貿易額は計一二六九億ドルで、いまだEUには及ばないものの、かつてひじょうに大きかった対米貿易との差を縮め、近年はほぼ並ぶまでになった。こうした急速な拡大ぶりにもかかわらず、中国貿易全体にアフリカが占める比率は三パーセント以下にすぎない。

二〇〇五~一〇年、サハラ以南アフリカは中国の対外投資先の一三・八パーセントを占め、アジア、中南米、中東(北アフリカを含む)向けよりは少ないものの、米国、∃-ロッパ、オーストラリア向けを上回った。中国の対アフリカ投資はアフリカが受け入れた海外投資ストック(累積)のたった三パーセントともいわれるが、別の統計ではすでに九パーセントに達するという見方もある。フロー(一定期間の投資額)では、EUには遠く及ばないものの、一国としては米国に次ぐ第二の対アフリカ投資国である。中国がアフリカ最大の貿易相手国にして最大の投資国となるのは時間の問題と思われる(ただしそのライバルとしてインドが名乗りを上げる可能性はある)。二〇〇五~○七年の三年間、世界銀行の対アフリカ支援・融資は一七四億ドルにのばったが、これに対して中国輸出入銀行のそれは一六〇億ドル近いと推定されている。

中国は国民国家ではなく文明国家

2014年05月14日 | 4.歴史
『中国が世界をリードするとき』より 文明国家

中国は国民国家であるだけではない。それ自体が文明なのである。事実、中国が国民国家となったのは比較的最近のことにすぎない。いつから国民国家になったかを正確に指摘することもできる。すなわち一九世紀後半、あるいは一九一一年の辛亥革命後である。その意味では--インドネシアは半世紀をわずかに過ぎた程度、ドイツやイタリアは一世紀と少しの歴史しかないというのと同じように--中国もつい最近できた国といえる。中国の存在は数千年にもわたって知られており、そのうち二千年はたしかに存在し、おそらくは三千年といっても間違いないところだが、一般の中国人はこれを大ざっぱに五千年の歴史と称するのを好む。要するに認識としても実体としても、中国の存在は国民国家となるはるか以前にさかのぼるのだ。実のところ中国は、世界でも群を抜く古さを誇る現存最古の政体であり、その起源を少なくとも紀元前二二一年に、ある意味ではそれより昔にさかのぼることができる。これは歴史の菰蓄などではなく、中国人一般(エリートばかりかタクシー運転手も)が実際に自国をこのようにみている。こうした認識は、孔子や孟子の名と並んでタクシー運転手との会話にもしばしば登場し、そこに古詩の引用が混ざることもある。

中国人が「中国」ということばを使うとき、通常は国や国民ではなく、中華文明そのものを意味することが多い。すなわちその歴史、歴代王朝、儒家思想、考え方、政治権力の役割、社会関係のあり方と習俗慣習、関係(個人的交友関係のネットワーク)、家、孝行、祖先崇拝、価値観、独自の哲学などだが、これらはすべて国民国家としての中国の歴史よりはるかに古い。ナショナル・アイデンティティがほぼ国民国家の歴史を基盤に形成された欧米諸国と違って、中国人アイデンティティは圧倒的に文明としての中国の歴史の産物である。中国人は中国を国民国家ではなく文明国家ととらえているのだ。あるいは別の表現をすれば、中華文明とはひじょうに古い地層のようなもので、無数の層が重なって文明国家を構成しており、国民国家はその一番表面にある土にすぎない。欧米社会は独立国家を基盤に構成されるのに対して、中国は文明を基盤に構成ざれている。後にみるように、この相違がもたらす結果はひじょうに大きく、広範囲に及ぶ。

もちろん、世界には過去に多くの文明が存在した。その意味では中華文明もとりたてて変わったところはない。しかしながら中国の特殊なところは、「文明」と「国家」とが、それも短期間ではなくひじょうに長い期間にわたって、ほとんど重なっている点である(大きな例外は中国西部)。ほかにこれと似た例を探すのは難しい。これこそ、中国を文明だけでなく、文明国家と呼ぶことができる理由なのである。ほかにも文明国家の要素を持つ国があるかもしれないが、中国のような形でのそれは存在しない。米国が文明国家の一例だということもできよう--アメリカ先住民を壊滅させてヨーロッパ人が移住し、新たなひとつの国家を、おそらくは新たな文明を、築きあげたのだから。しかしその文明はたんにヨーロッパの継承にすぎず、さらには歴史となると、どう好意的に数えてもわずか四〇〇年ほどしかない。インドもまた候補に挙げられるかもしれないが、しかし中国と違って今日われわれのいう「インド」は、英領インド帝国という比較的新しい政体にもとづき、それ以前の歴史は中国よりもはるかに多様性に富む。

中国はその脆弱さゆえに、支配的立場にあったヨーロッパ列強の意向に沿う形で一九世紀末に国際体制〔ウェストファリア条約にもとづく近代国民国家体制〕に加えられ、国民国家となった。以降一世紀にわたって、中国はみずからを文明国家ではなく国民国家と称してきたが、その第一義的アイデンティティと基本的性格とは文明国家のそれであった。そして今日では、国民国家と文明国家という二重のアイデンティティとでもいうものを備えている。歴史と国の成り立ちからみれば、中国はあきらかに文明国家なのだが、国際関係における立場の弱さゆえに、国民国家にさせられてしまったのである。あるいはルシアン・パイがその鋭い洞察力でとらえたように、「中国は国民国家のふりをしている文明なのである」。この二つのアイデンティティ--これ自体そもそも矛盾する--が将来どのように発展し、相互に作用しあうのかは依然として未知数である。

日本 連続するもの

2014年05月14日 | 4.歴史
『中国が世界をリードするとき』より 日本-西洋的ではない近代

日本は、ある動きに対する反応としての近代化が起こった世界で最初の例、すなわちヨーロッパの支配と優位という趨勢の中で近代を選びとった世界初の例である。その結果日本の近代化の過程は、みずからの意思と自覚の下に、西洋化と日本化の間を綱渡りする試みとなった。とはいえ後続のアジアの近代化と比べれば、日本はかなり恵まれていたともいえる。とりわけ日本は、近代化をどのように進めるか、どの道筋をたどるかを選択することができたが、これは後続のケースでは望むべくもなかった。だからこそ、日本はきわめて興味深い事例である--既存エリート層が、国の根幹とされるものを維持せんがため、みずから計算づくのうえで西洋化を選びとった例として。

徳川時代の長い鎖国状態をものともせず、日本は明治維新という決定的な転機にあたって外国の影響をおおいに受け入れ始めた。ちょうど五、六世紀の中国との関係がそうだったように。必要とあらば外国への接近をも厭わないこの姿勢が、日本社会の強さの根底にある。日本の「本質」を保持したいという欲求は、外国思想の拒絶によってではなく、社会学者・吉野耕作がいう「われわれだけの領域」の境界を明確にすることであらわされる。つまり、日本固有の習慣・制度・価値からなるとされる領域である。吉野は述べる。

「われわれの領域」を明確にするために、おもだった差異が取りあげられ、整理される。こうして「われわれ」(日本人)を「かれら」(文化的要素を借用した外国)から差異化するわけだが、それだけでなくここでより重要なのは、「われわれだけの領域」の存在を強調すること、すなわち「われわれ」というネーションの文化的実体としての連続性を示すことである。歴史的連続感もまたこのようにして主張される。この「われわれ」の文化的領域こそ、日本人だけが所有するものなのだ。

こうして日本の独自性は二種類に分けて規定され、主張される。まずは先にふれた日本的特異性という概念で、これは日本だけがもつ真に日本的とされる要素から構成される。次に、さまざまな外国の影響が日本独特とされる要素と交わってできたほかに類をみない形として。日本的特異性の概念は、日本人の自己認識の中ではその混交性よりも上位に置かれる。日本のユニークさとは、畳や酒や相撲といったさまざまな物質的特徴を含みながらも、最終的には日本人と非日本人の振る舞い方の違い、あるいは日本人と外国人のシンボリックな境界がどこに引かれるかという点に集約される。土着と外国の要素が並び立つこの二重性は、現実に日本のさまざまな側面にみられる。二者は共存しながら亀裂を生むこともなく、しばしば外国の要素は日本の要素に吸収されて再構成され、混ざりあい、統合される。このようにして日本近代は、ひじょうに複合的で調和のとれない、ときに奇妙な現象となった。この混交性は中国の影響を受けた時期に始まるが、もっとも明確に、劇的に進展したのは西洋化の時期である。あまりに西洋化か浸透してしまったので今や当たり前となり、これが日本本来の姿なのだと感じられるほどだ。基本的な装いは洋服だが、日曜には着物姿を見かけることが多いし、自宅で和服を着用する人もいる。日本食には日本・中華・西洋の要素が混在しており、箸とナイフ・フォークがともに使われる。さらにはすでに述べたような古代の歴史的背景から、日本語は中国由来の文字と日本独自の文字とで表現される。

熱心な西洋化の時期をへて、やがて日本的要素と西洋的要素というテーマに関心が向けられ、議論されるようになった。明治以降の日本の歴史は、たしかに西洋化と日本化の間を揺れ動いている。明治維新後二〇年間は猛烈な勢いで西洋化の道を突き進んだが、一九〇〇年までには内省に向かい、日本人の本質を問う気運が生まれた。この時期の議論では、もっとも本質的な日本的特質として三つが挙げられた。天皇制、武士道精神、家族社会(天皇を父とする)である。その後、第二次世界大戦の敗戦と米国による占領をへて、再び猛烈な経済的キャッチアップと西洋化の時代があり、続く一九七〇~八〇年代初頭にあらためて日本的特異性を規定しようとする動きがあった。しかしこの時期の「日本らしさ」の概念は、一九〇〇年代のものとは大きく変化していた。一九七〇年代の「日本人論」(日本人の本質についての議論)が注目したのは、同質的で集団志向の社会と、言語表現に依らない、論理的でない民族としての日本人だった。後者の特性は米国文化との対照によって日本らしさを規定しようとした態度といえるが、このことは戦後日本にのしかかった米国の存在の大きさを考えれば理解できよう。