goo

3つのディバイド

未唯へ

 豊田市駅前のスタバでは幸せな気分になれない。

だるい

 何かだるい。布団が悪いのか。

 かなり、くたびれている。先が見えないのか、毎日が過ぎていくことが怖いのか。

スタバの握手会

 スタバのアンケートに連続して、「握手会」と書いたのが、目に留まって、握手会を開くことになりました。といっても、参加者は私とIさんだけです。スタバのチームのメンバーには公開されている。

 何時でもいいと言われたけど、心構えをしないといけないので、金曜日にしようかと思っています。

現代の人間社会の問題としての3つのディバイド

 エコノミック・ディバイド。経済的に貧しい人と裕福な人の格差

 エコロジカル・ディバイド。地球環境のキャパシティとそれを超えた人間が使っている自然環境の量とのギャップ。

 セルフ・ディバイド。本当の自分と現在の自分のギャップ。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

愛と沈黙

『沈黙の世界』より

愛のなかには言葉よりも多くの沈黙がある。

愛の女神アフロディーテは海から、とりもなおさず沈黙から生れた。アフロディーテはまた月の女神であって、月は地球上にたれるその金糸の網のなかに、夜の沈黙をとらえるのである。

愛しあうふたりの人間の言葉は沈黙を増大する。沈黙は彼らの言葉のもとで増加する。相愛の人々の言葉は、ただ沈黙を耳に感じ得るものにするために役立つだけである。語りつつ沈黙を増大すること……それの出来るのは愛だけだ。あらゆる他の現象は沈黙を蚕食する。そして沈黙からその一部を奪い去る。ただ愛だけは沈黙に与えるのである。

相愛の人々はふたりの同盟者--『沈黙』との同盟者--である。恋する男が恋人に語りかけるとき、恋人はその言葉によりも沈黙に聴き入っているのだ。「黙って!」と彼女は囁いているようだ、「黙って! あなたの言葉が聞えるように。」

沈黙のなかでは過去、現在、未来が、一つの統一体をなして併存している。だから、相愛の人は時間の経過から解き放たれている。何物もまだ生じていない。万事はこれから生じ得るのだ、……未来においてあるであろうことは、既にそこにある、……過去において生じたことは、いわば永遠なる現在のうちに現に存在している。時間は愛しあう人々のもとでは静止しているのである。相愛の人々がもっている鋭い予感と明敏な洞察力とは、愛のなかでは過去・現在・未来が一つの統一をなしていることと連関しているのである。

愛ほどにも、日常のあわただしい営みの流れを中断するものは何もない。世界は他の何ものによっても、愛によってほど喧噪から沈黙へと奪回されることはないのだ。

愛のもとに必ず存在している沈黙によって、言葉は日常の忽忙から救われ、自己の根源へと、すなわち沈黙へと連れもどされるのである。相愛の人々は、太初の状態の近くに--そこにはまだ言葉はないが、しかし何時なんどきでも充ち満ちた沈黙から言葉が生れ出ることの出来る、あの太初の状態の近くに--いるのである。

言葉だけではなく、相愛の人々自身も、愛によって「末世の現象」(ゲーテ)の世界から解放されて、始原現象へと連れて行かれる。実に、愛そのものが二つの始原の現象なのである。そして、だからこそ相愛の人々は、他の人間たちのあいだで孤独なのだ。彼らは始原現象の世界のかかに--とりもなおさず、運動よりも存在が、説明よりも象徴が、言葉よりも沈黙が重きをなす世界のだかに--住んでいるのである。

愛に附随している内気さは、始原的なるもの、太初的なるものに常に見受けられる内気さに他なら痙い。恋人たちは、太初のものから世間の日常の機械的いとなみのなかへ捲き込まれることを、怖じ恐れるのである。

ひとりの人間が愛によって経験し得るさまざまの転生はすべて、この始原の現象が人間を一つの新たなる発端のまえに立たせることに由来しているのである。そして、人間が愛から受けとるあらゆる力は、愛が始原の現象として具えている力から生れ出るものに他ならない。

相愛の人々の顔はかがやいている。彼らの顔は透明である。愛という始原の像が彼らの顔を透してかがやいているのだ。だからまた彼らの顔はふだんよりも一層美しくなるのである。相愛の人たちの顔は浮び漂っているようである。始原の像のうえに浮び漂っているようである。

相愛の人たちがおのずから身に帯びているあらゆる神秘性は、始原の像が近くにあることに由来しているのだ。

愛のだかに始原現象的なものの含まれていることが多ければ多いほど、その愛は堅固で、そして持続的なものになる。

もっとも、相愛の人たちは不安である。しかしそれも、世間的現象形態のなかで自己を実現することを怖じ恐れる始原の像の不安が彼らの内部に宿っているからに他ならない。外部世界のなかで、現象形態のなかで、始原の像は戦きはじめるのである。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「疑念」→「思考」→「信念」→「行動」

思考と行動

 私の「思考と行動」の間について、プラグマティズムは4つの概念にしています。「疑念」に対して、「思考」して、「信念」を得て「行動」する。この「信念」が真理に置き換えられる。それは絶対的な真理ではなく、個人の真理です。

 いつの間にか出てきた、ThinkとAct、つまり、思考と行動は西洋哲学の主観と客観に対するモノの考え方みたいです。西洋哲学では、「理論(思考)」と「実践(行動)」(「主観」と「客観」と言ってもいい)の二元論が支配していましたが、これを「思考」→「行動」→「思考」……というサイクルによって統一したのです。

ウィトゲンシュタインの写像理論

 これが「論理哲学論考」のテーマです。事実に対応して、言語による写像が分かる。その写像を命題と呼ぶ。命題をすべて集めれば、世界のすべてが表わせるというのが、写像理論。

 写像というのは、幾何学の典型的な概念で、空間を変えることです。言語で写像するのはいいけど、言語をファクターとして見た時に、連続性があるのか。

 また、写像空間の次元は何なのか。単に言葉ということだけなのか。相手に写すための言葉です。

 言語には二つの問題がある。一つは「おはよう」のように世界を写しとる機能がないもの、もう一つは、人の気持ちや状況で、言語の意味が変わってくる。そこで、ウィトゲンシュタインは言語ゲームという理論を打ち出した。それが「哲学探究」であり、後期の哲学です。

現代思想はとばします

 雑記#734の130サワ『図解いちばんやさしい哲学の本』の「現代思想を導く哲学者」は取りあえず、とばします。ソシュール【言葉が世界を秩序づけている】、レヴィ=ストロース【社会には目に見えない「普通の構造」がある】、ロラン・バルト【『現代」という神話世界に投げ込まれている】、ラカン【人間無意識は言語でできている】、アルチュセール【人間的なマルクスと科学的なマルクスがいる】、フーコー【自分が自分を監視している】、デリダ【思ったことといったことはズレている】、ドゥルーズ【ノマド的思考で欲望の可能性を解き放て!】

 何か、屁理屈に見えて、しょうがない。やはり、「真理」探究でないと。

岡崎市図書館の10冊 

 319.2『中国が世界をリードするとき(上)』西洋世界の終焉と新たなグローバル秩序の始まり

 319.2『中国が世界をリードするとき(下)』西洋世界の終焉と新たなグローバル秩序の始まり

 290.9『ベルリンと北ドイツ』ハンブルグ ドレスデン ライプニッツ

 160.7『宗教家になるには』

 361.4『誰かと「いい人間関係」をつくるには?』人がわかり合える「魔法の距離」があります

 183.3『超訳 法華経』

 302.4『アフリカ社会を学ぶ人のために』多様性を学ぶ/過去を学ぶ/同時代性を学ぶ/困難を学ぶ/希望を学ぶ

 147『地球維新 天声会議』宇宙の黙示録

 164.3『ヘラクレスは繰り返し現われる』夢と不安のギリシア神話

 140『心理学スタンダード』学問する楽しさを知る 再度、借りた

豊田市図書館の予約本2冊 予約本のメールがあり、夕方、取りに行った。

 159.4『「型を破る人」の時代』“ズバ抜けた結果”を出せる人は、何をしているか 再度、借りた

 338.25『強欲の帝国』ウォール街に乗っ取られたアメリカ
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

スタバのお客様ひとり

歴史や社会と人間

 ヘーゲルは歴史や社会から人間を捉えた。歴史や社会との関わりの中で、人間は倫理的な存在になる。そこで、本当は存在の本当の力を、死を乗り越えて、出せばいい。

スタバの「お客様」ひとり

 「お客様ひとり」が気に入っている。「一人ひとり」というマスでないところが気に入っている。「人間ひとり」の中には、交換不可能な存在だということが示されている。

 人類の問題と個人の問題を一緒に考えられる。そこでの可能性が違ってきます。人ひとりが居て、それで社会や歴史があるという見方もあるけど、逆の見方、ヘーゲルのような見方もあるし、それらが存在の力を介して、相互作用するというのが、私が社会に出た理由です。

超人とルサンチマン

 弱者の思想を強者の理想に変える。人生は自分の思うままに自由に生き、自己実現を図る。貪欲に生きることを肯定する。こうした衝動が力の意思です。自己の能力を最大限に伸ばした人間は超人です。

 世界に自分なりの価値や意味を見出そうということを求める。そこから苦難が訪れる。それを受け入れて、生きることを肯定する。意味も目的もなく、何度も繰り返す永遠回帰。

客観が見えない

 客観がなく、全て、主観しかない。主観の上の現象だけを扱うのが、フッサールの現象学。客観が何しろ、見えない。他者そのものが見えない。

 他者のイメージを使って、核となるものが一緒の場合。言葉で表現できない。だから、他者とはつながらない。

 他者が存在しないとなると、真理は存在するのか。真理は共通のモノ。皆が真理と思うこと。それは他者が居なければ、真理は存在しないのか。自分ひとりの真理で十分です。

 人間が他人との関係の中で生きなければならないという事情から生まれてきたものを排除したものが現象学です。真理がもろ、それになっています。

相手の領域に入ってはいけない

 金曜日のIさんとの会話で、ちょっと、内に入りすぎました。過去何回も、これで失敗しています。相手の領域に入ってはいけない。これは鉄則です。

 中野に至っては、その結果、1年半、口をきいてくれなかった。夜通しで考えて、反省したはずです。

人間の存在の意味

 どうせ最後は死んでしまうのだから、理想を求めることも社会を変えようとすることも意味のないことのように思えます。それにもかかわらず、人間は生きている。それがハイデッカー。

 そして、人間の存在の意味。私はなぜ、生きているのかに迫った。こんな当たり前のことに気付くのに、なぜ、こんなにも時間が掛かったのか。素直に心を見ていないからでしょう。

 あまりにも、自分が生まれてきた、社会の一員という意識が強いです。そんなものは感じないんだから。やはり、西洋は神の存在が一番です。

 日本の場合はそんなことも考えない。単に生まれてきて、死んでいくだけ。唱えるのは南無阿弥陀仏。それを捉えればいいという、自然の中の人間。自分の存在を考えた時に、それですまないということ。

死への自由という考え方

 死に直面しないために、自分の存在とか可能性を著しく狭めてしまっている。ふつうの人が生活する領域にとじ込まれている。死を自由として、選び取ることによって、その制約はなくなる。死を自覚することで、自分本来の姿に向かい、自分の本当の関心や欲望が見えてくる。

 人間は自分の存在を無意味にしていく。これがサルトルの無です。私の無とは違います。まあ、底辺ではつながっているけど。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

再魔術化する日本

『災後の文明』より ソーシャル・ネットワークと群れの政治

この共通体験は、連帯財を共有している人びとにとって、災害という共通体験と相侯ってネットというスペクタクルを媒介として現実を過度に単純化し、多元的な世界と人のアイデンティティのあり方が単純な「敵か味方か」の二元論へと置き換わってゆく世界の「再魔術化(re-enchantment)」とでもいうべき事象をも容易に引き起こす。

近代の特徴とは、マックス・ヴェーバーの代表作に見られるように、かつてはびこっていた迷信や呪術的な体系から合理性としての資本主義の体系へと脱却する過程、すなわち「脱魔術化」の歴史であった。しかしながら、この歴史を現代まで引き延ばして考えると、技術の革新と新たなメディアの出現によって、サイバー・スペース上では過激な意見に繰り返し晒され、その過激な意見を支持している人が多数いると思い込まされれば、過激で極端な意見が、さもまともで標準的なものだと信じて疑わなくなる人びとが多く出てくる現象が見受けられるようになった。このように人びとがいとも容易く再び魔術にかかってしまう現象は日々生じているが、とりわけ震災時の非日常的なネット体験によって人びとの間で、この現象に拍車がかかった。社会学者のジョージ・リッツァは再魔術化をギー・ドゥボールの『スペクタクルの社会』(一九六七)を借景として消費空間における陶酔感として狭く論じているが、その射程は連帯財と共通体験という条件が揃えばよいのであって、何も金銭的な財に限定されるものではないのだ。

ところで、なぜ東日本大震災後では再魔術化に歯止めがかからず蔓延していったのだろうか。振り返ってみると一九九五年の阪神・淡路大震災の発生は終末論的な様相を呈しカルト化という再魔術化か生じつつあった。その只中で再魔術化に対する防波堤となったのは、懸命に震災救助をする人びとの映像が報道されたこと、そして皮肉にも同年三月二〇日にオウム真理教が起こした地下鉄サリン事件およびその後の一連のオウム事件が社会に与えた衝撃であった。

他方で東日本大震災の災後では、日本社会を危機に陥れるようなカルトによる事件は幸いにして起きていないものの、カルトヘの警戒心の薄れは今日の⊃冗論的な再魔術化を助長している。この傾向は、災後の文明それ自体が危殆に瀕する反知性主義を惹起する。

とりわけテレビ・新聞に対する不信感をインターネットメディアが吸収することで、通常は与しないような極端な二元論というまがいものの「大きな物語」への再魔術化に拍車がかかり、SNSを介しての流言飛語が拡散されていった。これらは、容易にスピリチュアル系の脱原発派やネットウヨクらによる陰謀論へと転化し、終末論的な誇大妄想や関東大震災時同様のヘイトスピーチの横行も多く見受けられるようになった。災後における原発事故被害が不完全情報状態下でデマの洪水に晒された結果、ネッ卜は情報収集手段のみならず、流言飛語の増幅器へと変貌した。そこでは同時に政府や政党、官僚、電力会社、大手マスコミその他関係機関を過度に敵視する人びとの群れが形成されていったのである。

たしかに震災直後は災害ユートピア的なものもしばしば見受けられた。だが、政治学者の犬塚元の表現を借りるならば、震災後、共同体の「絆」を強調した一元論は、ほどなくして「友-敵」関係という矮小化された「二元論」へと変容を遂げていったのだった。これは犬塚が云うところの「あいまいな被災者・被災地」という不安定なアイデンティティや、連帯することができない特定の他者の存在に対して鈍感で、硬直した社会の出来を意味する。災後の日本社会では、体制や既存のメディアに対する不信感をインターネットメディアが吸収し、そこで醸成された一部の原理主義的な脱原発派や、ヘイトスピーチを行うネットウョクらによるカルト化した陰謀論へと転化していったのである。

この転化はリアルとバーチャルの反転を生じさせた。インターネット空間が社会インフラとして、再魔術化された現実を拡張することで〈リアリティ〉を「さかしまに」させたのだ。それゆえ、震災という非日常を経験し、そこから戻れずに再魔術化され街頭に出た人びとの群れにとっては、リアルとサイバー・スペースの見境も、妄想と現実の見境も、科学的な知見と疑似科学の見境も、ヘイトスピーチのような差別を行ってよいのか否かの見境もつかないほどまでに、再魔術化された自身にとっての〈リアリティ〉が自分以外にも適用されうると思い込む。こうして反知性主義的な二元論や陰謀史観に染まった人びとの群れが、災後に多く出来した。さらに悪いことに、人びとの無知につけ込み不安を煽って商いを行う者の姿は、現在でも後を絶たない。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

グローバル化の衝撃をどう緩和するか

『ゲアハルト・シュレーダー』より 社会的市場経済という思想

人口減少と社会の高齢化が続き、他のアジア諸国に比べて人件費が高い日本も、ドイツと同じ悩みを抱えている。一二年に国立社会保障・人口問題研究所が公表した「日本の将来推計人口」によると、六〇年の日本の人口は一〇年に比べて三二%減って約八七〇〇万人になると予測されている。現在に比べて、人口が約四一〇〇万人減る。現在のドイツの人口よりもやや多い程度の水準に落ち込む。六五歳以上の人口の比率は約四〇%に達する。

ドイツ企業同様、日本企業が「この国は市場として小さ過ぎる」と考える日は遠くない。我が国が生活水準を維持するには、遅かれ早かれ、ドイツと同じようにグローバル化の道をたどらざるを得ない。外国で長く働いている日本の企業マンの問でも、「わが国の経済が生き残るためにはグローバル化する以外にない」という声をよく聞く。

しかし、日本には本格的なグローバル化のための準備が整っているだろうか。ドイツ経済や社会制度を観察してきた観点から見れば、日本ではドイツほどグローバル化の衝撃を緩和するメカニズムが整備されていないという印象を受ける。

手厚い社会保障制度、労働組合の力の強さ、従業員の代表に経営情報を共有させる共同決定方式が日本には欠けている。

一つの例を挙げよう。ドイツの勤労者をグローバル化の衝撃から守り、日本の大半の企業に欠如しているもう一つの仕組みが、社員の雇用契約である。ドイツの雇用契約の有効期限は、原則として無期限。そこには、働き始めるときの給与額、社員の義務と権利、具体的な仕事の内容、一日の労働時間、有給休暇の日数、残業時間の扱い方などが細かく規定されている。全社員が雇用契約を持っており、雇用者と社員が署名しなくては、正式に雇用されたことにならない。

「日本や米国の大半の企業には雇用契約がない」と言うと、ドイツ人は驚く。雇用契約はドイツでは常識だからだ。権利と義務をはっきりさせることは、勤労意欲を高める。権利と義務が明確でなければ、労働者が疑心暗鬼になって、仕事に専念できなくなるだろう。

雇用契約は、グローバル化による企業構造の変化に社員を対応させる際の基盤ともなる。経営者は、雇用契約の内容をどう変更するかについて、事業所委員会および社員と交渉をしなくてはならないからだ。雇用契約があるために、経営者は従業員を正当な理由もなく解雇したり、仕事の内容を一方的に変更したりすることができない。

ドイツの勤労者は、雇用契約、事業所委員会、社会保障制度によって幾重にも保護されている。日本にはドイツほどの社員保護はない。

グローバル化によって、ドイツ企業は勤労者に、これまで以上に柔軟性を示すことを求めている。一九九〇年以前には、週末や休日に自宅で仕事をする人は稀だったが、今やITと通信技術の発達により、ブラックベリーやiPadを使って自宅で働く人が大幅に増えた。その中で、勤労者の権益を守る盾となっているのが、雇用契約と社会保障制度だ。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

全球凍結を生き抜いた

全球凍結を生き抜いた

 スノーボールアイスは7億年前。地上の気温はマイナス50度。氷の厚さは1000m以上。大陸が分裂して、河川が増えた。海岸が増えた。河川によって、地表の岩石が削られて、浸食により、大気中の二酸化炭素が海中に吸収された。二酸化炭素の温室効果がなくなることで、大規模な寒冷化が始まった。

 マイナス50度からプラス50度に超温暖化された。それで凍結が解除されるのに約1000年。最初の動物、オクタビィアは全球凍結を生き抜いた。

 カンブリア爆発は5億2千年前。史上最大の大量絶滅事件。大規模な火山活動でプリュームの冬が到来した。

 6千6百年前、恐竜の絶滅。小惑星の衝突が引き起こした死の連鎖。

豊田市図書館

 今週は新刊書がかなり、少ないです。連休の性なのか。

 バスで行ったけど、2時20分に着いてしまった。新刊書に群がる風景はやはり、嫌いです。

パートナーの相談

 昨日の相談、5時半から6時半まで。先週の木曜日以来です。連休中は考えてなくて、明けからどうしようかを考えて、そのための相談です。自分の中の決意を固めるためです。

 あれだけのパワーがあれば、どんどん変えていけます。自分がやりたいことを言えばいい。Sの責任感のなさでいかに振る舞うか。

 何しろ、言いたいことを言えるようにするだけで十分です。それが私の役割です。そうすれば、絶対に道が開けます。

Iさんと会うために午後年休

 Iさんが13時からしかいないということで、午後年休にしました。おかげで、5分ぐらい、立ち話をしました。話の内容はお客様感覚ではなく、友達感覚です。なぜ、こんなにも会いたいものなのか。

 結局、Iさんのパソコン業務を邪魔していた。甘えてはいけない。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )