
散歩中、村の牛飼いさんに「ご苦労さん」とあいさつしたら、「はい、飼料は高いし、牛の値は安いし、土曜・日曜どころか、盆も正月もありません。よい事は何もありません」と、嘆きの言葉が返って来ました。別の牛飼いさんに「ご苦労さんです」と申したら、「はい、おかげさんで、今日も牛どんに養うてもろとります」と言葉が返ってきた。その方が、後光を放っておられるようでした。
これはある方の文章に載っていたものを借りました。最後に「同じ牛飼いさんでも、生きておられる世界はおなじではないと、教えられました」と結んでいる。地方でも牛が畑や田を起こす風景は見られなくなっているので古い話と思うが、誰に話されているのかやその場所、話の前後を知る由もないが、後の人からは後光が放たれていると賛辞が送られた。
人間、言っても仕方ないことは分かっていても言って嘆くことはある、これを愚痴という。満たされない思いのするとき、ため息が出るとき、悲しいとき、頼みたいことがあるときなど愚痴が出る。文句を言いたいとき、何かを訴えたいときも、仕方ないことは分かっていても口のするのが普通の人だろう。口に出せば思いが軽くなり次への転換点になる。
「愚痴をこぼす人あれば、愚痴を聞いてやる」というすぐれたご仁も少なくない。子どもに係わる事件や事故が連日のように報道される。その内容は悲惨さが度を超し命までも奪っている。そうなる前に何とかならないか、愚痴の段階で何とかならないか、子どもの日、家族団欒の映像をみながら思っている。