創世記 24章28−49節
季節の変わり目だからでしょうか。体調を崩している方が何人かおられます。それほど遠くないところでの長引く戦争、何となく完了感のない感染症疲れなどの世の中の動き、身近な家族の問題など、ストレスの原因は限りがありません。夜眠ることができるのは、まさに奇蹟だとも思えるのです。
イサクの妻を求めてアブラハムから遣わされたしもべは、リベカとの出会いを神の導きによるものだと確信し、リベカの家族を訪ねます。昨日も書きましたが、彼は物事を誇張や矮小なしに、正確に伝えています。これはできそうでできないこと。大げさに伝えたり、自分の感動を押しつけがちになりやすいのですが、しもべは神からの確信を得ながらも、リベカの家族に判断をゆだねます。
48節に「私を確かな道に導いてくださった」とあります。
神に信頼して歩む人は、話の隅々に「神の導き」「神が導いた」などということばをそれほど意識しないで用います。人生は、物事は自分の知恵や力で切り開いていくものと考えている人が聞くと、主体性がないとか弱々しいとか言うかもしれません。
でも、すべてが自分の力や才覚だけで動かせるものでもありません。成功して喜び誇り、失敗して悲しみ落ち込むということだけが生活ではないのだと、立ち止まると考えるのです。失敗だと思ってしばらく落ち込んではみたが、それがよい経験だったということは少なくないな、と思います。
あらゆる経験を通して、神はご自分の民を「確かな道に導いてくださ」る。