創世記 24章50−67節
月に一度の聖書の会、お昼も一緒にいただきます。皆さんが持ち寄るものは多くが日本食。きのうはおはぎも…。美味しくいただきました。
まだ会ってもいないイサクの妻となるために家を旅立つリベカ。アブラハムのしもべがリベカをイサクの妻として神が備えておられたと確信していたように、リベカにも確信と覚悟をおぼえる箇所です。
十日間ほどとどまらせたいと言う兄や母の気持ちもよく分かります。もしかしたらリベカは二度と家族と会うことはできないのです。けれどもアブラハムのしもべは、一刻も早くリベカを連れて帰りたいと言います。家族としての情が分からないわけではなかったでしょう。
しかし、彼はこの旅に、リベカとの出会いに、神の確かな導きの御手をおぼえていました。「主が私の旅を成功させてくださったのですから」を聖書協会共同訳は「この旅の目的をかなえてくださったのは主なのですから」と訳します。彼は一刻も早くイサクのもとにリベカを連れて行きたいということを含めて、主の導きだと信じていたのです。
決断はリベカにゆだねられました。彼女は「はい、いっしょに行きます」と答えました。
一度も出会っていない、見合いも交際もしていないで結婚を決断するなどということは、今ならとても考えられないことです。けれども、ここに結婚とは何かということについて忘れてはならないことが込められているように思います。結婚はゴールではなく、神が二人を合わせて一つにしてくださるというスタートなのだということを改めて、ここから考えました。