みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

自分の神、主に

2024年05月22日 | 出エジプト記

出エジプト記 32章1−14節

 連休明けの火曜日、午後に買い物に出かけたのですが、この日から二日間はまたもやバスのストライキ。今度もアプリで知りましたので、徒歩で別のスーパーに行くことにしました。レジの担当者は日本語を少し話すことができて、昨日は「またねー!」と言ってくださったのがおもしろかったです。

 出エジプト記32−34章には、モーセが山に上っている間に民が金の子牛を拝むという罪を犯したこと、その顛末(てんまつ)が記されています。きょうの箇所では、民の圧力に負けたアロンが鋳物の金の子牛を造ったこと、民がそれを拝み、飲み悔いし戯れたこと、さらに主がモーセのほかのすべてのイスラエルの民を滅ぼすと言われたこと、モーセが民のために主にとりなしたことが書いてあります。

 ここでは、モーセの留守を預かるアロンの頼りなさが目に留まります。アロンは「ことばの人」ではないモーセのために、主が置いてくださった人。単にモーセの兄という立場だけではなくて、幕屋の製作の命令の中では、大祭司としての務めを担う人物でした。

 これまでモーセとアロンは、一人の人のようにして神からのことばを民に伝え、エジプト脱出に際して大きな役割を果たしてきました。しかし、ここではアロン一人では全く弱いということが明らかになってしまうのです。「われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい」と叫ぶ民を説得できず、それどころか、金の子牛を造り、神々として民に示すのです。

 神は山の下で行われている愚行のすべてを知り、彼らを滅ぼすとモーセに言われます。10節に目が留まります。このことばはモーセの心をひくようなものかもしれません。しかし彼は、必死になって民のためにとりなします。そのようなことをしたら、神の御名があがめられなくなると訴えるのです。また、11節には「自分の神、主に」とあります。

 ここでのモーセの祈りは、十字架上のイエスのとりなしヘと通じます。そして、私たちにイエスの名によってとりなす者となるようにという、メッセージを届けています。 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。