ガラテヤ人への手紙 6章
昨日は年に一度の墓参へ。その方が主の許に召されて8年が経ちました。先月にはお孫さんが赤ちゃんを出産したとのこと。生きておられたら「ひいおばあちゃん」でしたね。
終わりにパウロは、教会の修復、回復のために、ガラテヤの人々が働くよう勧めます。1節の「もしだれかが何かの過ちに陥っている」とは、不特定のだれかが神のみこころにかなわないことをしてしまったという一般的なものではないように思います。
この手紙のテーマを考えるなら、そして手紙の終わりに何を勧めるのかを考えるなら、「何かの過ちに陥っている」だれかとは、ガラテヤの諸教会を歩むべき道から逸らしてしまうようなことを持ち込んだ人々に影響された、教会の指導者のことかもしれません(1節の「だれか」は単数形が用いられています)。
ここでパウロが勧めているのは困難なこと。だからこそパウロは、ガラテヤの人々を「御霊の人々であるあなたがた」と呼びます。あなたがたが「御霊の人々」であることを、過ちを犯した人々が本来の道に戻るため働くことによって示してほしいと、挑戦しているように響きます。
あの人はとんでもないことをしてしまった、だから私たちとは関係がないとするのはよくあること。繰り返しますが、過ちに陥った人を正し、再び交わりに迎えるのは困難なことです。それは「重荷を負い合う」ことなしには起こりえません。
「キリストの律法」という2節のことばに目が留まります。「モーセの律法」に対してパウロは「キリストの律法」と呼ぶのです。それは「愛の律法」と言い換えうるものです。パウロはすでに「律法全体は、『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という一つのことばで全うされるのです」と書いています(5章14節)。
手紙の終わりは、パウロの不格好な大きな自筆の文章です。ここに、パウロのガラテヤの諸教会への愛が込められているように読みました。パウロ自身のことばを読んだ彼らは、どんなに励まされ、また喜んだだろうかと想像しながら、本書をひとまず終えます。次は5年後ですね。