みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

生まれてこなかったなら

2016年10月10日 | ヨブ記

ヨブ記 3章

 朝はぐずついた天候なのに、夕方には青空もちょっと顔を出す…というような毎日です。最高気温が13度程度で、暖房が必要な頃になってきました。いつもは土曜日に行かないショッピングモールに出かけましたら、びっくりするぐらいたくさんの人。やはり次の日が休みなので、賑わっているのでしょうか。1本なら3ユーロの林檎ジュースを、3本なら6ユーロという声に乗せられて3本買ってしまいました。こんな誘いに弱いことに今さらながら気づきます。

 第一の試練の際には「主は与え、主は取られる」と言い、第二の試練の際には「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか」と不信仰に陥っている妻を諭すヨブは、ここに来て別人のように自分の生をのろっています。「生まれた日は滅びうせよ」「神もその日を顧みるな」「なぜ、私は、胎から出たとき、死ななかったのか」などという嘆きのことばは、ヨブの苦しみがどれほどのものかを物語っています。1、2章でのヨブと、3章のヨブとは別人なのでしょうか。そうではありません。

 24節の「私の最も恐れていたものが、私を襲い」ということばを心に留めました。彼が最も恐れていたものとは何でしょうか。苦しみの窮みにあって自分の生を肯定できないということ、生きている意味を失いかけているということかと考えました。

 「主は与え、主は取られる」と告白した彼は、自分が今味わっているひどい苦しみも主からのものだということを受け入れています。それならなぜ、主は私にこのような苦しみを与えられたのかを聞いてみたいとの、心の奥深くの思いが今ほとばしり出ようとしているように、3章を読みました。


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