みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

望みある嘆き

2016年10月04日 | ローマ人への手紙

ローマ人への手紙 7章13-25節

 雨上がりの公園を歩いてきました。胡桃(くるみ)採りの術を発見! 何のことはない、棒切れを高い所にある胡桃の実にぶつけて落とすということでした。それで、胡桃の木の下には棒切れが落ちていたわけがわかったのです。私…ですか? 棒切れ作戦ではなく、ひたすら木の根元を見て、おこぼれを3個ゲットしました。 

 「みことばの光」が書くように、7章後半のパウロの嘆きについては、救われる以前の自分を振り返っているとの理解もあります。しかしここでは、もしも御霊に拠り頼むことがなかったら、イエスを信じてもなおキリスト者は罪との戦いに敗北する、みじめな生活を送ることを描いているのだと考えます。「イエスさまを信じたその日から、もう私は罪とは縁を切って、くっきりとした青空の下を歩むような生活が始まり、もう後戻りするなどありえません」と言えればいいのですが…。

 自分の力で神のことばを実行できないことのゆえに、もしかしたら救われていないのではないかとの疑問さえ湧いてくるような、大きな課題だと思います。24節にある、「私は、ほんとうにみじめな人間です。誰がこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」といううめきは、しかし、絶望の嘆きではありません。

 それに続く「どんでん返し」のようなことばは、自分に絶望するということの先に、そのような自分を受けとめて完成に導いてくださるお方がいることへと通じています。 ありがたいことです。


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