ローマ人への手紙 6章1−14節
きょうから10月。今年の日本は次から次へと台風が来る夏でしたが、そろそろ秋が感じられる頃でしょうか。「みことばの光」の表紙をめくりますと、「巻頭言」としてその月の聖句が一つ載っているのですが、それとともにイラストが添えられています。これを選ぶのになかなか苦労しております。10月は稲のつもり。モノクロではわかりにくいかと、PDF版のイラストをアップしておきます。PDF「みことばの光」は表紙の内側もカラーになっています。
「恵みの場合は、多くの違反が義と認められる」、「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」とパウロが書きました。これらは、神の恵みの圧倒的な大きさを描いたものですが、聞いた者たちの中には、神の「恵みが増し加わるために、…罪の中にとどまるべき」だ、「そうだ、罪を犯しても、神の大きな恵みで赦してくれるのだから、神の恵みをより強く、深く味わうためには、どんどん罪を犯せば良い」などと言って、悪ノリする輩(やから)がいたのでしょう。
6章は、そのようなとんでもない考えに対するパウロの反論が記されています。2節と15節で「絶対にそんなことはありません」として、パウロは彼らの考えを真っ向から否定します。きょうの箇所は、なぜ「絶対にそんなことはない、あってはならない」のかの理由の一つめです。それは、キリスト者とは、キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた者である。そしてバプテスマは、古い人が死んで、新しく生まれたということを表わしている。ということは、私たちの古い人は死んでしまったのだ、死んでしまった者はもはや罪の奴隷ではないので、罪を犯すことはない。だから、「自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい」と勧めるのです。
11節の「思いなさい」(新共同訳聖書「考えなさい」)ということばが印象に残ります。これは、「判断する」ということ。何となくボーッと思っているのではなくて、自分の今の立場に基づいて判断するようにとの勧めです。
イエスを主と信じて、何が終わり、過ぎ去り、何を賜わり、新しくなったのかを、いつも忘れないのが肝要であることを教えられます。