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本日も就航します

2020-11-07 07:34:36 | 2014~2020青ヶ島

 11月7日土曜日。本日も就航します。

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長門二見駅

2020-11-07 00:24:06 | 2020_秋_山口帰省


 JR西日本に転換する20年前、昭和42(1967)年の長門二見駅。始発は3時台、最終列車は23時台。列車が動いている時間帯は駅員配置駅。駅長、助役、出札係、改札係、ホームの詰所に運転取扱業務係(信号やホーム監視)などおよそ8名の駅員さんが常駐していた。ジローさんからの証言。
 出札窓口では、近距離だけではなく大阪や京都(経由:幡生・山陽・東海)まで昔ながらの硬い切符も何種類も常備。

 1987(昭和62)年4月1日からJR西日本に継承。国鉄時代は始発から最終まで駅員配置だったが、民営化後は朝7時から夕方5時半頃まで交代で1人の駅員体制に短縮。硬券も利用の多い金額のみに短縮。やがて・・・1989(平成元年)10月から合理化により、無人駅化。大正時代に開通したときの駅舎が取り壊される前に記念撮影。

 ちょうど10年前の風景。あれから全然変わりはないですが、ホームの階段付近に小さな風除けを兼ねた待合室設置。

 もともと「豊浦郡宇賀村」の名残なのか、戸籍上の住所は「北宇賀」。このあたりは無番地でしかも広域におよぶため、宅配便や郵便の住所は便宜的に「駅前通り」と記載。宇賀村から豊北町になり、2005(平成17)年から下関市になりました。

 まず、最初に右側の小さな駅舎建立。そのつぎに、左側の待合室を増設。

 川棚温泉行きは1日4本だけど、海岸沿いの小さな集落の肥中ゆきは列車の時間に合わせているのか若干本数は多め。

 ずーっと海岸沿いを走行していたのに、ここでいきなり線路が「く」のように曲がる理由は大正時代に山陰本線を敷設する工事中、滝部に権力者がいらしていたため、鉄道勧誘したという伝説もあるそうですが、事実はどうなんだろう。

 子どもの頃、何度も通っていた階段なんですけど、今、見ると小さくなっている。子どもの頃見たウニがサッカーボールと同じくらいの大きさだった。ぱかっと真っ二つに割っても針のようなトゲが動き続け・・・中身のオレンジ色の身を取り出して殻をぽいっと投げ捨て。それでもトゲは動く。それが恐ろしいモンスターのように見えて口に入れるものではない!とトラウマになったみたいです。

 階段は常時点灯する必要があるため、40Wの直管蛍光灯から省エネしかも長寿命のLEDに付け替え。

 子どもの頃と同じ大きさ、同じ空間のはずなのに、狭くなっている。不思議。

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