どんなジャンルのランチにしようかな~とカーナビをいじっていたら、この近くに韓国料理店があったので、迷わずセレクト。
「かんや」という、ひらがなのお店になっていました。 ハン尚宮(母)は石焼きビビンバ。
テーブル備え付けのコチュジャン(唐辛子味噌)の量が少なかったため、「もっと入れてください」と頼むと、店員さんが目を丸くしていました。
この写真はきれいに盛り付けてあるのですが、食べる前にかき混ぜてしまいます。
おこげがある程度ついていたほうが美味しい。
母も作れる得意料理ですが、器も石焼きだったらいいな~。
(受け皿の木台とセットで6、7万ウォン(≒4500円~5500円)なので、躊躇してしまいます・・。 普通のビビンパもついている、冷麺セット。
日本人の好みに合わせた韓国料理だと思うが、もう少しキムチが欲しいところ・・・。
あっさり、さっぱりした味で美味しかったでした。
冷麺の本場は北朝鮮。 2008年1月、家族旅行で盛岡へ行ったときのランチは「ぴょんぴょん舎」。北朝鮮北東部の日本海に面する咸興(??「ハムフン」)市出身の青木輝人氏(日本人に帰化)が日本で冷麺を普及させました。
盛岡は北緯40度、ちょうど北朝鮮の気候に似ていることから定着してしまったようです。
わんこそば、ジャージャー麺、そしてこの冷麺が「盛岡の三大麺」として全国に知れ渡っています。
わざわざ盛岡に行かなくても、首都圏で「ぴょんぴょん舎」の冷麺を味わえるところがあります。
ホームページによれば、銀座に2店舗、川崎駅西口、埼玉県三郷市の新三郷ラポートにもありました。
日本人の口にアレンジしたとはいえ、とても美味しい逸品です。
博物館の隣接する建物は、図書館になっていました。
館内を見渡せる場所に館長さんの執務机が置かれていました。
80歳になっても現役でお仕事とは素晴らしい。
そのような仕事があるからこそ、頭の働きに刺激が入ってきて、若返りもできてしまいますね。
体を動かずにじっとしていたら、そのまま寝たきりになってしまう心配もありますので、時々無理のない範囲で体を動かしたり、自分の好きなものに取り組んだり、脳を刺激すると若返りできるデータも出ているようです。 戦争遺品の展示コーナーはちゃんとジャンルごとに分類されていたのですが、図書館は無造作に置かれていました。
湿度が高いため、カビが生えてしまった貴重な本たちが・・・。
これらの本たちは国立国会図書館も欲しがるほどの古書がいっぱい。
どんな本が所蔵しているかわかりませんし、今となっては貴重な書籍がそこに眠らせたままになっているかも知れません。
図書館の専門知識を持つ司書の方に整理をお願いするとよいかも・・・。
青ヶ島村立図書館も1999年に初めて上陸したときは、「うわぁ~並び方が無造作だなぁ~」と思っていましたが、2007年、久しぶりに行くと、日本十進分類法に沿った並び方になっていました。(もしかすると、おとなりの八丈町立図書館の司書さんたちが整理して下さったかも知れません) なんで北朝鮮(※)の雑誌が転がっているんですかっ!?
(※北朝鮮では、自分の国を「朝鮮(?? 「チョソン」)」と言います。韓国は「南朝鮮(???「ナムチョソン」)」。「北」や「南」を冠すると、蔑む意味になる)韓国も北朝鮮を「北韓(??「プッハン」)と言っていますし・・・。
残念ながら、湿気で紙と紙がくっついてしまいました。 朝鮮の雑誌なのに、なぜか日本語で書かれています。
朝鮮の元号、チュチェ(漢字は「主体 ??」)、永久国家主席の金日成さまの誕生日(1912年)を元年とし、1997年(チュチェ86年)に制定されたもの。
1912年をチュチェ(主体)元年とし計算してみると、90年は西暦2001年。今年2010年はチュチェ(主体)99年になります。
昭和天皇と皇后さまの肖像画。
明治時代に制定された大日本帝國憲法に基づき、天皇陛下を神様として崇拝されていました。
天皇は「現人神」(あらひとがみ)と言い、この世に現れた人間の姿をした神様を意味します。
この肖像画は戦前どこの家庭でも部屋の真正面に飾られていたそうです。
昭和21年、昭和天皇は「人間宣言」と称される詔書を公布。 朝鮮民主主義共和国もかつては大日本帝國の植民地。
昭和天皇と皇后の肖像画を崇められていたときと同じように、金日成主席様と金正日総書記の肖像画を家庭、公共施設、地下鉄車両、駅舎、空港、学校の教室・・・どこでも揚げられています。
肖像画を大切に扱われているか、打ち抜き検査に来て、少しでもホコリがついていただけでも、強制労働所に連れて行かれるそうです。これは北朝鮮に関する本からの情報でした。
(写真は国境付近の韓国側の「北朝鮮資料館」で撮影) 昭和天皇は数だくさんの写真が残されていますが、大正天皇と明治天皇はこの写真しかありません。
「現人神」とし、写真を撮るだけでも不敬なことでとても畏れ多く、できなかったそうです。 汽車の無料乗車券付の赤紙。
本郷職隊區司令部が長野県の一般人に昭和17年3月20日午後1時までに東京都麹町區代官町近御歩兵弐連隊に到着せよ。と命ずる通知書。
乗車區間 自 松本驛 至 東京驛
乗車月日 昭和17年3月19日
發行日の日付は見当たらないが、赤紙をもらって、すぐ翌日の汽車に乗って行きなさいという強行的だったものかと伺えます。
戦地に赴きたくないはずなのに、赤紙をもらうと「おめでとうございます」と祝う風習がこの時代にありました。 これは絶対にもらいたくなかったはずの死亡通知書。
赴任先は召集を受けた場所で言い渡されるので、家族に自分はどこに行くのかは知らされていないそうです。
当然のことながら、残された家族は愛する人はどこに行って、今何をしているか、知るべきものは全くない。
赴任先からのはがきや手紙が来るわけだが、料金印字面は「軍事郵便」なので、消印は省略。返事の宛先も、召集の受けた場所の住所でしか知らない。
たとえば、「木更津航空機基地気付」が宛先になっていれば、軍事郵便配達員が戦闘機に積み、はるばる1250キロ離れた硫黄島に配達されたケースもありました。
戦前の雑誌。
タイトルは左からではなく、右からになっています。
館内は戦前だけではなく、戦後のものまで陳列。
昭和20年代末期に出た、14型テレビ。
当時はなんと25万円!!
14型のアナログテレビを処分したくて、リサイクルショップに持ち込み。
買い取りは1円になってしまいますとのこと。
「1円はいらないです。引き取ってくださいな~」
テレビを処分するのに家電リサイクル法によると1700円の手数料がかかる。
1700円かかるところがタダで引き取ってもらえると嬉しい。
しばらくして、リサイクルショップのテレビコーナーに行ってみると、「00年製 アナログ14型インチ 取扱説明書なし リモコン付き 300円」の値札が貼られていました。
昭和20年代末期の25万円とは雲泥の差。(笑)
えーっ!?これは洗濯機。
クルクル回転しながら洗えるわけだ。 1950(昭和25)年まで使われていた、壁掛け式電話。
あれから60年・・・電話機がすごくコンパクトになり、音声だけではなく、電子メール、インターネットのWebサイト、しかもお互いに顔も見ながらのテレビ電話もできてしまう。
今から60年後といえば、2070年。その頃の電話機はどうなっているか知りたい。
たぶん、昭和25年の発想で今の携帯電話を想像できなかったと同じように、もっとすごいものが出来ているでしょう。
「ご自由に展示品の撮影をしても構いません」とのことでしたので、いろいろ撮ってきました。
戦時中は日の丸を意味する日章旗と、日の丸から赤い光を放つ朝日のような旗の2つが使われていました。
朝日のような旗は「大日本帝國陸軍」を意味し、昭和20(1945)年8月15日までに存在していた組織。 博物館入り口の横に置かれていた、戦闘機の操縦席。
死の旅路に出発する「神風特攻隊」は秘密作戦であったため、ほとんど10代の青少年は家族に知られることはなく、自ら敵機に体当たりして亡くなられた方も多い。
戦闘機そのものが兵器であったため、跡形もなく爆発してしまいましたが、こうして残されているのは戦火を免れたものだと思われる。 A級戦犯者の東條英機。
「昭和16年12月8日、真珠湾を不法攻撃し、米軍と一般人を殺害した罪」として、昭和23年11月12日の東京裁判で死刑判決。
同年12月23日に巣鴨拘置所(現在は池袋のサンシャインシティ60に隣接する「東池袋中央公園」)で死刑執行。
公園内の死刑が行われた場所に「戦犯者慰霊碑」が安置されています。
日本軍の食器類。
小笠原・父島の戦跡ツアーに参加したときのジャングルに残された食器。
日本軍のトレードマークの星がついています。 ハン尚宮(母)いわく、「私も子供のころはこの服だった」。
当時は韓国に住んでいたため、チマチョゴリのような服を着せられていたのこと。 軍事郵便。
軍事郵便は戦時に赴いた兵士が自分の安否を家族に知らせるために使われた、無料制度の郵便。
差し出すと、検閲官が手紙の内容を読み、知らせてはまずい部分を墨で消し、検閲済のスタンプとともに検閲者の認印。
たとえば、小笠原の硫黄島に配属されましたと書くと墨で消されてしまう。年間常夏に赴きましたとか、うまく言葉の表現を変えなければならないそうです。 昔の銭単位のはがきや手紙。
今の時代、1円玉だけで何も買えないのに、昔は何枚か買えました。
4銭切手25枚で1円。2銭切手50枚で1円。
戦前の1円は今の価値で言えば、1000円くらいでしょうか。
菊の紋入りの天皇陛下恩賜のたばこ。
喫煙者が大幅に減少し、平成15(2003)年から施行された健康増進法により平成18(2006)年廃止。
兵士の階級ごとに割り当てられた帽子。 映画「硫黄島の戦い」で脚光を浴びた、玉砕総指揮官、栗林忠道氏の肖像画。
平成18年(2006)年、テレビ局が戦後初めて硫黄島で栗林忠道氏が指揮を執っていた地下壕を公開。
湿度も高く、非常に蒸し暑いところ。しかし、遺骨は2010年現在、まだ見つかっていないようです。
なんなんだ!?古めかしい旧字体の漢字が使われています。
観光ガイド雑誌の「まっぷる」や「るるぶ」には載っていない、一風変わったB級観光スポット地だそうです。
この博物館は館長の栗林白岳さんが私財を投じて、1987(昭和62)年建立。
今年80歳とおっしゃっていましたので、計算してみると1930(昭和5)年生まれ。
戦局が激しくなった1944(昭和19)年、満蒙開拓青少年義勇軍に14歳で自ら志願。
その後、獣医生として関東軍に所属、上等兵として終戦を迎えた。
太ももに鉄砲の弾が当たり、貫通。獣医の知識を生かし、自らの手で弾を抜き取り治療を施したという。
戦争を二度と繰り返さない後世のためにこれだけの量を収集されたのは本当に素晴らしい。 はるばる外国のサイパン島より帰還した戦車。この戦車は昭和18年満州國(今の中国)公主領戦車隊よりサイパン防衛に参加し、同海岸で玉砕。鎮魂の品であり、遺品でもある。平成18年、同島海岸で発見し、日本に帰国。
館長さんの手作り看板にそのような説明文が書かれていました。
サイパン島は東京から南へおよそ2500キロなので、小笠原の父島からおよそ1500キロ。父島へは、おがさわら丸で25時間半かかるのに、サイパンへは飛行機でおよそ3時間。
ホンモノの戦闘機が飾られた、博物館の入り口。
遠くから見ても迫力があります。 まるで大日本帝國を思わせるような、受付の雰囲気もすごい。
受付の係員は女性の方でした。
「日本刀2本、自決用短刀1本を心なき方に盗まれてしまいましたので、館内各所で防犯カメラで録画中です」とのこと。
受付の横で鎮座。
日露戦争を舞台にしたNHKドラマの「坂の上の雲」でのロケに使われたとのこと。
「坂の上の雲」を書いたのは、司馬遼太郎さん。
彼も戦争を経験しているので、フィクションを基に小説化。
その小説を映像化にするのに、これらの展示資料が役に立ったわけですね。
お笑いコンビ、U字工事の写真付きで紹介されていました。
栃木県出身といえば、森三中の大島美幸さんも有名。
何度かテレビに出ていますし、出身地は大田原市とおのずと頭の中にインプットしてしまったかも知れません。
ツッコミ役の福田さんは那須塩原市、ボケ役の益子さんも大田原市出身だそうです。益子さんと大島さんとは、幼稚園から中学校まで幼なじみとのこと。
栃木は人を笑わせるのが得意な県民性なのかな、なんて思いました(笑)
栃木県の学校給食では当たり前のように出てくるとのこと。といっても、レモン果汁0%。
パッケージにちゃんと「無果汁」と出ています。
人工的にレモン風味に作られたものだけど、学校給食法違反にならないかな?
職場の保養所なので、申込者本人と、家族は安く利用できますが、一般人と同時に申し込めます。一般はちょっと高めになっています。
ありきたりの部屋ではなく、離れのコテージを選んでしまいました。
浴場。
さわやかな緑を眺めながらの入浴は気持ちよかったです。
ホンモノの温泉に入りたければ、センター横の大浴場。
露天風呂は、岩風呂と檜風呂。
檜のほうが木のぬくもりがあるので、長時間も愉しめそうです。
ハン尚宮(母)は韓国ドラマ「チャングムの誓い」みたいに、料理の味にシビアなので、今回は特別料理をオーダー。
海のない栃木県なのに、次々と魚料理が運ばれてきて、最後に和牛ステーキ。
これも美味しかった~。
今回は魚料理がメイン、しばらくすると野菜、最後はステーキで締めくくり。
母の採点は「合格点に達している」。
100点満点より超えるところは千葉県・千倉の「グルメの宿 政右ヱ門(まさえもん)」。リピーターが多いのは頷けます。 バルコニー。
雨でテーブルや椅子が濡れています。
もし、晴天だったら、マイナスイオンたっぷり浴びせられるでしょうね~。
同じ関東地方だというのに、縁もゆかりもない栃木県。
山口県の小さな漁村まではるばる栃木県からのボランティア研修生がやってきて、母が晩御飯を作っては、手話での会話を楽しんできたそうです。
彼は介護士の資格を持っており、高齢者を労わる気持ちも強いせいか、とても優しい人でした。
5年のブランクがあっても、スムーズに手話での会話もできました。
日本語の文法と異なる外国語のような手話を長年も使っていなれば忘れずはずなのに、記憶力が素晴らしい。
栃木での観光はどうしようかな~と思っていた矢先、「那須付近の観光地をご案内します。七宝(しっぽう)焼き体験はいかがですか?」とメールが届いた。
観光はお任せするとし、那須高原に出発!
山口から栃木に行くのに、いくつかの都道府県を通過しなければならないが、千葉からだと東京都、埼玉県を通過するだけで辿り着ける。
粘土から陶器を作るものかな、と最初は勘違いしてしまいました。
金属製の下地にガラスの微粉末を水と混ぜたものを800度の高温で焼成することにより、溶けたものが美しい色彩に化学反応しますと説明を聞いても、何のことなのか、全然イメージでは理解できませんでした。
こんなもので美しい色彩に仕上がるんですか~??と半信半疑の気持ちで色のついているガラスの微粉末と水を混ぜたペースト状のものを盛り付け。
「銅が見えなくなるまで盛り付けてください」とのことでした。
カラフルなもので飾り付け。
高温の窯で焼き上げると、不思議!!
化学反応し、きれいな色彩が放つようになりました。
窯から出したばかりだと、真っ黒。
しばらく経つと、ご覧のとおりきれいな色に変わりました。
これは体験の素人作品ですが、店内にプロが仕上げた、美しい七宝焼きの作品が販売されています。
「本当に楽しかったです。ありがとうございました~」
スタッフが「ありがとうございま~す」と玄関まで見送ってくれました。
駐車場で那須観光を案内してくれた人と別れることになり、しばらく雑談。
すると・・・さっきのスタッフがやってきて、
「あ、計算間違えたので、2千円をいただきます」
あわてて、栃木の人が払ってくれたけど、せっかく楽しい思い出なのに、水を差さないで欲しい。
私だったら、楽しい体験の思い出を持ち帰ってくれただけでも嬉しいのに、これだけは残念・・・