東京アイランド

OCNブログ人サービス終了に伴い、ここに引っ越ししました!

半年かけて【完】東京へ

2024-02-21 00:29:13 | 2023_盛夏_宗太郎駅・岩徳線

 2024(令和6)年2月20日。昼間の最高気温はなんと23度を記録。明日(21日)は真冬並みの寒さにぶり返すそうです。
2023(令和5)年8月18日に出発し、その日のうちに宗太郎駅と思ったのに前夜の大雨でダイヤが乱れ予定とおり行けず。ワンチャンスは翌朝の1番列車は1日1本しかない始発兼終電なので、それに乗って行くしかと思い、列車で秘境駅に向かうのも成功。京都に泊まって、20日帰京なので、ちょうど半年前です。

 東海道山陽新幹線を利用するのに九州に少しでも売上げと思い、JR九州のEX予約を利用。JQカード会員なので、九州新幹線のみの利用なら1%、山陽・東海道新幹線の利用なら0.5%のポイントがJRキューぽに還元されます。

 15時48分定刻とおり・・・

 東京行き「のぞみ」入線。真新しいN700S系が来ますようにと願っていたものの、古いN700A系でした。

 あっという間に品川駅到着。


 在来線乗換口ではなく、新幹線専用改札口に2枚のきっぷを差し出し、記念に持ち帰りたいと申し出るとN700系の無効印を押印してもらって出場。
 今年(2024)年2月から宮崎駅の端末が更新され、発行表示が「宮崎駅ーRN発行」に変わりました。古いMR52型は長年も使っていると、印字のかすれがひどかったので、新しい改良版のMR52N型は印字ヘッドを定期的に掃除してくれる機能がついているので、いつまでもくっきりきれいな印字状態で発券できるだろうと思います。(2024年2月現在、東京駅(JR東日本、JR東海)、新宿駅ではまだ更新されておらず、古いMR52型。地方から新しくなり、首都圏は最後!?)

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京ごはん

2024-02-19 00:38:45 | 2023_盛夏_宗太郎駅・岩徳線


 せっかく京都まで来たのなら、全国チェーンのお店ではなく京都オリジナルのお店でランチ。

 2023(令和5)年8月20日の15時過ぎ。今からちょうど半年前です。

 ここはJR西日本在来線側の中央口。反対側はJR東海の新幹線、八条口。1つの駅に2つの旅客鉄道会社の駅があるのは、東京・品川・新横浜・小田原・熱海(JR東海とJR東日本が同居)・米原・京都・新大阪(JR東海とJR西日本が同居)・小倉・博多(JR西日本とJR九州が同居)。

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京都駅へ

2024-02-17 00:12:50 | 2023_盛夏_宗太郎駅・岩徳線


 こちらは1897(明治30)年に建てられた二条駅初代駅舎です。初めからその場所にあったわけではなく、曳家により移したもの。

 梅小路京都西駅に向かいます。

 京都駅の隣にあり、1.7キロ。

 みどりの窓口はありませんが、リモートのオペレータ対応のみどりの券売機プラス設置。

 対面販売と同じく、メモによる筆談は可能です。オペレータさんは筆談で対応するお客様だと理解し、キーボード入力し、券売機の上部に文字で表示されます。間違いなければ、OK!のサインを出すとかのジェスチャーでも通じます。訂正が必要なときは、改めてメモに書くなど。
 JR西日本及びJR四国では、そういった機能が付くものは「みどりの券売機プラス」。JR東日本、JR北海道は「話せる券売機」。JR東海は「サポート付き券売機」、JR九州は「なんでも聞いてください。どうぞ」という名称が付いています。

 ここで買ったわけではなく、遠く離れた宮崎県の延岡駅で発券。

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機関士さんの必須品

2024-02-14 00:15:31 | 2023_盛夏_宗太郎駅・岩徳線


 蒸気機関車を動かすのは、機関士さん。機関助士さんは投炭作業(石炭を炉に入れる)や機関士さんが確認できない部分の安全確認など。2人体制が原則でした。

 防塵メガネ。蒸気機関車から吐き出す煙は小さな煤煙という粉がたくさん含まれています。目に入ると痛むし、見えなくなっては困るので、このようなメガネを装着。
 機関士さん必須の鉄道時計。今は精度が高いクオーツが主流だけど、昔は電池を使わず手巻きの機械式。蒸気機関車の原動力は蒸気を沸かした熱をエネルギーに替えて動かしていました。時計までもゼンマイの力で動かす、大昔の鉄道。

 蒸気機関車の行路表。到着時刻や発車時刻は1秒単位です。電子制御も全くない蒸気機関車の速度をコントロールし、秒までぴったり合わせるなんて至難の業なのかも。

 多量の水が必要です。蒸気機関車が活躍していた頃、給水塔があちこち設置されていました。

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D51(デコイチ)はポピュラーだけど、D52、D50もありました

2024-02-12 00:00:46 | 2023_盛夏_宗太郎駅・岩徳線

 蒸気機関車のD51(デコイチ)は1115両も製造され、かなりポピュラーな形式だったんですけど・・・

 D52もありました。終戦直後の1946(昭和21)年、三菱重工業製造。わずか26年後の1972(昭和47)年に現役を退きました。

 日本最大・最強のマンモス蒸気機関車と書かれています。D51の重量は1000トンだけど、D52は1200トン。主な用途は貨物列車の牽引用でした。285両。

 D50 140は昭和に改元する1ヶ月前の大正15(1926)年11月、山口県の日立製作所笠戸工場で完成。140号機は九州でラストラン、京都に移設。これも用途は貨物用として大正末期から1931(昭和6)年まで380両製造。

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昭和天皇のお召し列車の指定牽引機

2024-02-10 00:35:58 | 2023_盛夏_宗太郎駅・岩徳線

 令和も6年になり、昭和も遠くなりにけり。大正天皇が47歳の若さで崩御され、昭和天皇が25歳で即位。昭和時代は戦前(昭和元年から16年)、戦時中(16年から20年)、戦後(20年から64年)の3つに分けられていて、多様な文化が移り変わっていた長い時代でした。

 大正15(1926)年の12月25日に大正天皇が崩御され、この日から昭和元年に改元。わずか1週間で昭和2年。C51の239号機は1927(昭和2)年大阪汽車株式会社製造。昭和天皇のお召し列車牽引機として、指定されていました。

 1962(昭和37)年、現役引退後は新潟県の鉄道学園敷地内で長年も野ざらし状態になり、そのまま朽ち果てるのではないかと言われていたようです。製造37年目で廃車にしてしまったようですが、国鉄のディーゼルカー、キハ40や47は40年経過してもバリバリ現役です。

 機関士さんが蒸気機関車を動かす運転席。

 こちらは石炭を炉にくべる助手席。国鉄時代は蒸気機関車に2名、後ろの客車は車掌が乗務。車掌が機関士に出発進行を伝えるのに無線トランシーバーが使われるようになったのは戦後の高度経済成長期だと思うんですけど、それがなかった時代は汽笛で合図していたようです。

 メーターがたくさんついていて、何を意味するかわかりかねます。

 蒸気機関車の後ろにある、石炭を搭載するところです。

 

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これも懐かしい国鉄のレッドトレイン

2024-02-08 00:33:25 | 2023_盛夏_宗太郎駅・岩徳線

 昭和50年代の山陰本線はディーゼルカーほかにDD51ディーゼル機関車が牽引する旧型客車もありました。旧型客車は自動扉ではないため、手動の開けっぱなしの客車なので、危なっかしい。昭和54(1979)年あたりから旧型客車の後継として自動ドアの50系レッドトレインデビューしました。

 初デビューは1979(昭和54)年。機関車が牽引する客車はランニングコストがかかりすぎるという理由により、電車またはディーゼルカーに移行してしまったのは1992(平成4)年頃。わずか13年で使われなくなるのはもったいないこと。

 真岡鐵道がJRから譲り受けた50系客車を3両保有し、主な用途は蒸気機関車の牽引用。

 これも懐かしい車内の雰囲気。山陰本線で活躍してた頃は海が見える右側の座席を好んで座っていました。

 50系客車の便所。和式のぼっとん式。デビュー当時は便器の穴から線路のバラストが丸見えでした。現在はすべての車両に貯留式のタンクを取り付けているので、昔のような垂れ流しでは無くなっています。垂れ流しだと、線路のメンテナンスを行う作業員からの訴訟もあったとのこと。沿線住民からは「黄害」だとクレームが殺到していた時期もありました。

 4人掛けボックス。大人4人が座っていたら、膝が当たるような狭さ。

 もともと50系はエアコンがありません。この車両は展示物なので家庭用エアコンが取り付けられています。

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戦後の特急として活躍していたC62

2024-02-06 00:06:10 | 2023_盛夏_宗太郎駅・岩徳線


 1948(昭和23)年にC62の第1号機が作られました。

 製造メーカーは山口県の日立製作所笠戸工場。

 ジローさんが若かった頃、蒸気機関車による旅行を何度かしており、何もない田舎の山陰本線はまどろっこしいD51、山陽本線は高速走行が可能なC62とのこと。主に特急運用として使われていましたが、デビューしてからわずか20年後の昭和43年、東海道本線、山陽本線が電化になったのに伴い、C62は引退。

 0系新幹線の普通車。2列&3列なのは現在も変わらずです。

 変わったのは、これ。0系新幹線全車両灰皿完備。あの頃は新幹線の車内でタバコを吸っていい時代でした。嫌煙家が国鉄に禁煙車両を設けて欲しいと要望を出したところ、1981(昭和56)年に1号車の自由席のみ禁煙車設定。指定席はもちろん喫煙車両。タバコ税により国鉄の収入になるので、禁煙車の設定はしぶしぶとかなり重たい腰を上げたらしいです。徐々に禁煙車が増え、禁煙と喫煙の比率が50%になったのは、1992(平成4)年に「のぞみ」デビュー時。次第に、禁煙車の比率が増え、喫煙車は減少。2011(平成23)年のN700系がデビューすると、全車両禁煙になり、喫煙ルーム設置。2017(平成29)年に喫煙車を連結していた古い700系は引退し、全車両禁煙になりました。16両のうち3両は喫煙ルームがありますが、2024(令和6)年から喫煙ルームを災害が起きた場合に備え、非常用飲み水の置き場にするので、全国の新幹線でタバコが吸えるところはすべて無くなります。

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博物館の出札機器

2024-02-04 00:00:07 | 2023_盛夏_宗太郎駅・岩徳線


 現在のモデル、日立のMR52型。2011(平成23)年頃から使われ初めているので、あっという間にもう13年前。印字のカスレを防止するため、改良版のMR52N型が順次置き換えが進んでいます。
 JR東日本では、東京支社、横浜支社はMR52型でその他の支社はすべて沖電気のME4型。

 こちらはMR52型が出る前のMR32型。白いフレームになっています。

 さわって体験するマルス端末。本物と同じように、乗車券の変な経路でも入力できるのかと思いきや・・・タッチパネルの色が変わった場所にタッチ。サンダーバード9号を選択→停車駅一覧が出てきて、色が変わった駅名は芦原温泉。タッチすると、座席表が出てきて、空席のところに色が変わってタッチ。発券ボタンを押すと、裏が白色の紙きっぷが出てきますが、ぱっと見て偽物とわかるもの。体験で発券したものがホンモノとそっくりだったら、有価証券偽造罪に問われてしまうので、当然なのかも知れません。

 マルスが出る前の座席予約は駅から電話で列車の空席照会があると回転円卓に入っている台帳を取り出して、予約可能な座席位置を伝え、印を付け、回転円卓に戻す。人間の手で作業しているので、少なからず1つの座席に予約が重複するダブルブッキングはあったかも知れません。今のマルス端末はコンピュータで処理しているので、ダブルブッキングの発生はゼロ。指定席券の表示された座席のところに行くと、先客が座っていたとなると先客(または私)が座席番号を見間違えたケースがほとんどです。私もそのような経験ありました。私の指定席にどなたが座っていて、この席、私の席なんですけれども・・・。お互いにマルスで発券されたきっぷを確認。見知らぬお客さんに「座席番号は同じだけど、号車が違っていますよね。ここは1号車で合っています。あなたは2号車」と言われ、赤っ恥かいたことも。

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次は昔懐かしい出札機器

2024-02-02 00:49:15 | 2023_盛夏_宗太郎駅・岩徳線


 物心ついた頃はパタパタページをめぐるタイプの大型端末。

 この機械でした。モニターは黒地に緑色の文字。あの頃はネットで予約するシステムがなく、指定席券の予約は必ず駅の窓口で購入していました。特に年末年始の新幹線をリクエストして照会結果が「NO」とモニターに映し出されるとがっくり・・・ということもありました。それでも空席がある代替案も端末が回答してくれるので、この席はないんだけど、次の列車ならありますよ、どうしますか?といったとようなやりとり。
 上は乗車駅、下は下車駅といったように駅名が書かれたページにピンを差し込む穴がありました。下関駅の端末は山陰本線のページを開くと、下関からおよそ益田あたりまではすべて駅名収録。ところが、同じ端末であっても遠く離れた東京駅とかの端末は山陰本線のページは主要駅のみ。長門二見とかのマイナーな駅名はなく、電報略号「ヒロフタ」とキーボード入力。経由を入力するのも、シンカーサンヨーサンイ。
 今の新しい端末はタッチパネルの液晶モニターなので、ながとを入れただけで、長門の付く駅名がずらりと表示され、長門二見をセレクト。下車駅は東京。経由は山陰ー(幡生)ー山陽ー(新下関)ー新幹線ー東京といったように接続する次の候補一覧が出て、当てはまる駅名や線名をセレクト。簡単に発券できるけど、昔のM型は入力するカタカナの文字を間違えただけですぐエラー。ずいぶん進化しました。

 M型端末の型番。東海道新幹線が開業した1964(昭和39)年、予約は手作業ではなくコンピュータがやって欲しいと国鉄が日立に開発を依頼。現在の真新しいMR52Nも日立製です。前のMR52の改良版として、印字のカスレを発生させないようにヘッドクリーナ付き。沖電気もきっぷの統一性を図るため、日立製と全く同じフォントを使用。

 M型端末の先代機種。

 マルス104 活字棒。装置に列車名の活字棒を差し込み、両端に穴があいているきっぷのフォームに印字するタイプ。1972(昭和47)年頃。

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昔なつかしいものが沢山

2024-01-31 00:02:29 | 2023_盛夏_宗太郎駅・岩徳線


 国鉄時代末期にデビューした初代0系の後継となった、100系。シャープなフロントマスクが特徴です。2階建てや個室を備えた車両を組み込み、当時食堂車も連結。
 停車駅の手前10キロあたりから「〇〇駅まであと〇Km」とデジタル数字で表示できる機器も取り付けられたような記憶があります。

 子どもの頃飽きるほど乗車した客車の先頭はこの機関車。山陰本線は非電化区間なので、DD51ディーゼル機関車。1992(平成4)年、山陰本線におけるDD51牽引の客車は全滅してしまいました。あれからもう31年前になるんですかね。
 JR北海道では2016(平成28)年・・・今年36年なので、あっという間にもう8年前。北海道新幹線が開業する前までは函館から札幌間を走る急北斗星、カシオペア、トワイライトエクスプレス、急行はまなす号の牽引機関車もこのDD51でした。列車種別が「特急」のときは、特急らしくスピード走行を要すため2両連結してフル駆動。急行「はなます」は1両のみ。

 機関車の下に潜ってみます。

 ディーゼルエンジンの駆動力を伝達して回転する装置のようです。

 自動ドアではなく、手動扉の客車、オハ46。

 1955(昭和30)年製造。現在も、この車両に乗れるところは大井川鉄道です。この客車に乗るとしたら、子どものとき以来なので、ン何十年ぶりになります。

 国電101系。昭和時代の山手線も同じタイプでした。国鉄が民営化になる2年前の1985(昭和60)年に国鉄初のステンレス車両の205系デビュー。2002(平成14)年頃、E231系。2015(平成27)年に今のE235系に引き継がれました。新しく出たばかりかと思ったら、もう9年前!? 

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昭和30年代の特急

2024-01-29 00:09:46 | 2023_盛夏_宗太郎駅・岩徳線


 東海道新幹線開業前の東京と大阪を結ぶ、特急こだま号。国鉄151系が使われていました。1958(昭和33)年11月デビュー時は6時間50分。2年後の1960(昭和35)年に若干のスピードアップし、6時間30分。その4年後の1964(昭和39)年10月に東海道新幹線開業。6時間30分から4時間に短縮。

 新幹線「こだま」名称札。開業当時の0系行き先サボに差し込んで使っていたみたいです。60年後の今はわざわざ手作業で差し込まなくてもフルカラーのLED表示。のぞみは黄色、ひかりは赤色、こだまは青色で区別。

 151系の普通席。すべて灰皿付き。東京から大阪まで6時間以上もあるので、ひっきりなく紫煙をくゆらせていたかも知れません。車内の空気は猛烈のタバコの刺激臭が立ち込めていたかも。しかも座席は今のように独立したものではなく、2人で1脚。

 このエアコンに見覚えあり。国鉄時代の特急「にちりん」の天井にあったものと同じタイプです。東芝の旧ロゴマークの傘マークがついていました。全車両喫煙車なので、吹き出し口の冷風とともにタバコのヤニ臭さっぽさが・・・。当時の日本専売公社はたばこを売れば売るほど税収増益につながるので、税収で賄う日本国有鉄道に「禁煙」は到底無理な話だったかも知れませんが、今だったら考えられないような世界。

 座席をコンピュータで管理できるようになったのは東海道新幹線開業1年後の1965(昭和40)年まで。開業から1年間はこの硬券で対応。

 東京駅窓口。硬券のきっぷ収納箱に囲まれたところです。お客さんから行き先及び希望する新幹線の指定席を告げられると、該当する硬券を取り出して、鉄道電話で指定席管理センターに電話していました。

 これは硬券を収納する棚。1つ1つずつ売上げを手作業で確認し、集計が終わったら、赤鉛筆で硬券の裏面の印を付けます。1日に1枚も売れなかったら、赤線もう1本追加。それでも売れなかったらさらに1本。やっと買ってくれるお客さんが現れると、裏面が赤線だらけのきっぷを売ることになっています。昔は手作業で管理して計算していたので、かなり大変だったかも。

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昭和30年代にタイムスリップ

2024-01-27 00:45:11 | 2023_盛夏_宗太郎駅・岩徳線

 京都の鉄道博物館内に昭和30年代を再現したコーナーがあります。

 「ALWAYS 三丁目の夕日」に出ていた、ダイハツのミゼット。2005(平成17)年の作品なので、計算してみたら、なんと19年前。まるで昨日のように思い出しますが・・・。
 秘境駅と言われている飯田線の小和田駅周辺もボロボロ錆びたミゼットの廃車が残されています。現在、駅周辺では車道がなく車が通行できないところなんですが、なんでこんなところに車が!?と思わせるところです。佐久間ダムが出来る前は車道があって車の往来ができたとかの諸説もありますが・・・。

 昭和30年代の駄菓子屋さん。

 昭和30年代のテレビ画面はぱっと見て、小さすぎる画面なんですけど、あの頃ではこの14インチの大きさでも普通のサイズでした。


 ボンタンアメは今でも九州など西日本では現在も販売中のロングセラー商品です。ここでなつかしいものばかり拝見。

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ここでも国鉄(京都鉄道博物館)

2024-01-25 00:41:50 | 2023_盛夏_宗太郎駅・岩徳線

 京都鉄道博物館に訪ねたのは今回で2回目になります。ゲートから入って真っ先に目に付くのは・・・

 1964(昭和39)年10月1日に開業した、東海道新幹線の0系。もう60年前になります。当時の指定席は今のようなオンラインシステムではなく、全国で1ヶ所しかない指定席管理センターにおいて中華料理の回転テーブルに各列車ごとの台帳を置き、各駅から電話を受けたら該当する列車を回転テーブルから取り出し、座席を割り当て。指定席番号を回答し、台帳を所定の位置に戻す。
 電話で回答を得た座席番号を細長い硬券にゴム印の駅名や列車名を押印。ボールペンで乗車日や座席番号を書き込み、日付刻印器で日付を入れて現金収受。昭和39年10月1日 ひかり1号 東京 → 新大阪の1番列車も、このやり方で指定席を販売。
 手作業だと非効率なので、コンピュータで座席を取れるようにしたいと当時の国鉄が日立製作所にシステム開発を依頼し、1965(昭和40)年9月24日から全国の主要駅で「みどりの窓口」開設。

 0系で2&2列なので、これはおそらくグリーン席。

 この風景を見て、懐かしいと思えるかたは、おそらく40代以上の方だと思います。今のJR東日本E235系(山手線)やJR西日本323系(大阪環状線)の車内はかなり近代化されていますが、こちらは昭和のレトロっぽさ雰囲気が漂います。

 JR西日本は物持ちがよいのか、大阪環状線でも103系が2017(平成29)年まで活躍していました。

 戦後の高度経済成長期にデビューし、見納めは平成の終わり頃でしたが、現在も残存線区はJR西日本の播但線、JR九州の筑肥線。

 日本で初めて鉄道が走ったのは1872(明治5)年。新橋から横濱間で始発は8時。9時、10時、11時、13時、14時、15時、16時、17時、18時。1日9往復、片道53分かけて移動。(現在は東海道本線で24分)

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梅小路京都西駅

2024-01-21 00:17:20 | 2023_盛夏_宗太郎駅・岩徳線


 京都のとなりは「丹波口」駅でした。その中間に2016(平成28)年にオープンした鉄道博物館への利便性を図るため、京都商工会が新駅を設ける提案があり、京都市も検討。
 京都市は新駅名を公募したところ、「梅小路」の付く駅名が多数あり、京都駅から西へ1.7キロなので、西側の観光拠点とし、「梅小路」に「京都西」をくっつけた駅名となりました。
 わずか1.7キロなので、乗車タイムはあっという間です。

 漢字6文字の駅名です。山陰本線に新しい駅ができたのは2008(平成20)年に山口県下関市の梶栗郷台地駅が出来て、11年後の2019(平成31)年3月にオープン。令和ではなく、平成最後の新駅。

 博物館は改札を出てすぐそこです。この駅が出来るまでは京都駅から路線バスでしたが、電車のほうが確実で速いです。

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