久々の鉄道ネタです。映画の情報をネットサーフィンしていたら、「四日間の奇蹟」に見覚えのある風景が・・・。
さらに調べてみると、ロケ地は山口県下関市の旧豊北町内であることが判明。
平成の大合併で豊北町が下関市に吸収され、毎日欠かさず見ていた豊北町役場のホームページが消えてしまい、合併したあとの豊北町の情報が全く入らなくなった。
しばらく見ていないうちに豊北町が映画のロケ地になったとか、有名なところになったのではありませんか!?
実家から2つ目の駅、特牛(こっとい)駅のホームに釣りばか日記で有名な西田敏之さんや松坂慶子さんが立っている画像を見つけ、なんと特牛駅で撮影!?とびっくりし、検索にかけてみると、旧友のホームページが出ていました!!
駅ノートのある駅 ~旅人達の伝言~
知り合ったきっかけは、今はなき美祢線大嶺支線の終着駅、大嶺駅に置かれてあった、駅ノート。
山口県の西部に日本海側の山陰と太平洋側の山陽を結ぶ美祢線があって、途中の南大嶺駅からちょっと飛び出した、わずか2.8キロの盲腸路線。
本線の南大嶺駅を出ると5分足らずで終着駅の大嶺駅に着く。
中学のときか、高校のときか忘れてしまったが、休みの日になるとのんびりと汽車旅が好きで1度訪ねたことはある。
終着駅の大嶺駅は改札を出ると、本当に何もないところ。
ノートを設置した管理者が「谷に眠る終着駅」と名付けたとおり、あの場所の雰囲気が好きだった。
今から10年前、帰省のときはマイカーだった。
東京から山口まで中央道~名神道~中国道でおよそ1000キロあるのだけど、途中2、3回休憩すれば12時間~14時間。高速警察隊に気をつけながらの違法速度だと10時間ちょっと。今はもうおじさんなので、遠く出かけるなら飛行機か新幹線を選び、現地に着いたらレンタカーを借りるようにしている。(笑)
国道435号線のパイバスが出来てからは、大嶺駅前の道路は県道に格下げされたが、帰省のときはわざわざ大嶺駅前の道路を通り、何度か立ち寄った。
いつの間にかに旅人向けの駅ノートが置かれてあり、管理者と手紙による文通が始まったという経緯がある。
大嶺駅が廃止されたあと、文通が途絶えてしまったが、今日は「四日間の奇蹟」のおかげで何年かぶりの再会、とても懐かしく思い出しました。
大嶺駅が廃止されたのは平成9年(1997年)3月31日。管理者は最後の大嶺駅を見届け、数たくさんの写真や当日の細かいドキュメントなどを記された手紙を大切にしている。
★大嶺支線の歴史★
明治38年(1905年)9月13日、日露戦争で用いる燃料輸送目的で厚狭~大嶺間開通
明治39年(1906年)12月1日、日本国有鉄道化
大正13年(1924年)3月 南大嶺~長門市間開通に伴い、南大嶺~大嶺は支線になる。
昭和45年(1970年)大嶺炭鉱山閉山、貨物留置線撤去
昭和60年(1985年)大嶺駅無人化
昭和62年(1987年)4月 JR西日本発足
平成 9年(1997年)3月31日 大嶺支線・大嶺駅舎廃止
そのあと、貫禄のある駅舎を壊さないでくれと、何度か通い続けたが・・・・
平成11年(1999年)ついに駅舎が取り壊される
平成13年(2001年)駅舎跡に大嶺郵便局が移転。「大嶺駅跡」という墓標を立てる。
平成16年(2004年)8月 山口宇部空港に向かう途中、友人のヨングクと大嶺駅跡に立つ。しかし、ヨングクは「あ、そう」と興味を示さず。
★現役最後の姿 廃止1ヶ月前の97年2月27日★
駅舎は明治38年に建てられた当時のまま。昔は瓦だったのですが、何度か補修しているうちにその姿になりました。
キップ売り場、改札口、荷物受付窓口、何人も駅員が駐在したと思われる広い駅事務室も残されていました。
色が褪せてしまいましたが、お気に入りのフォト。ホームの横に何本かの輸送用の貨物留置線跡が見られ、昔は栄えていた駅だということが伺えます。
大嶺駅の中に貼られてあった、時刻表。1日6本!!朝の3本は通勤と通学、昼の1本は買い物、夕方の2本は勤め帰りってことでしょう。
大嶺駅最終日の記念キップ(平成9年3月31日)。大嶺駅最後を見届けることができず、「大嶺から南大嶺までのキップを下さい」。係員が怪訝そうな顔で「山口なのに今日のでいいですか?」「今日で大嶺支線が廃止されるので、記念として」
発券した時刻はすでに大嶺の最終が出た20時過ぎ。翌日から「大嶺」という文字がみどりの窓口のコンピューターからは抹消されてしまった。
★大嶺駅最新の画像 2004年8月★