カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

パッチとスカート

2014-12-17 | culture

 あんまり寒いとズボン下を穿く。いわゆる股引、パッチである。これが若い頃は気恥ずかしさもあって、やせ我慢していたようにも思う。少なくとも衣料品店で自分で買えない。母やつれあいに買ってもらって着用するわけだが、それも自らの意志というより、勧められて心配されて穿くということでなければならない。複雑な男心である。
 ということで最初は違和感もあるし気恥ずかしいが、当然これがあるとないとでは大違いで、寒い日には大変に助かる。トイレで少し戸惑うこともあるくらいで、慣れたらそんなに動きにも不自由を感じない。以前の木綿の股引と違って、最近はそれなりにフィット感も優れているように思うし、実に暖かい。広告でヒマラヤか何か山岳地帯でこれを着てポーズを決めているのを見たことがあるが、わざわざそんなことをさせられているモデルさんたちには大変に気の毒ではあるが、実際にそういうことになっても暖かいのだろうことは実感として分かる気がする。普通のズボンより暖かいということが、ズボンに隠れて普段は分からない。実に後ろめたく素晴らしい現象ではなかろうか。
 さてそういう状態で野外活動をしていると、相変わらず女子中学生や女子高校生、はたまた普通の女性もそうなんだが、短いスカートの人たちが平然と闊歩しておられるのを目にする。ここまで来ると驚異の世界というか、かなり異常性を帯びているという気がするんだが、見た目には比較的平気そうにしておられるような人も多い。いや、厳密には寒いはずで、一時の野外移動だからなんとかしのいでいるということなんじゃなかろうか。スポーツ漫画のような闘志や根性の隠された表現なのかもしれないとも思う。
 学校を卒業された一般の女性がそのようなファッションをされるということについては、特に意見は無い。事実それなりにかっこいい場合もあるし、自己表現なら勝手にやったらよろしい。問題は制服としてのスカートである。これは以前も書いたので繰り返しになるが、制服のスカートは、少なくとも冬場のものは、選択制にするか夏服冬服の移行時期に、スラックスというかズボンというかパンツというか、そういうものにすべきなのではないか。女だからスカートだという一律の取り決めは、日本の冬と女の子たちをなめ過ぎているように思えてならない。自分でやりたいなら問題は無いから、せめて選択制として、足を守ったり暖めたりすることが、何より健康的に思える。僕は男だから正直に言うと女性の足を見ることは精神保養になることも無いではないのだけれど、僕の精神保養の為に彼女らの足があるわけではなかろう。寒い日の野外に制服女子を見るのは、大人となった人間には不憫に思えてならない。是非とも社会運動として、この文化の改善を望むものである。
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堂々と嘘の言える日本人たれ

2014-12-16 | culture

 人間社会で生きていくうえで大切なのは、他人を騙してはいけないという社会規範であるといわれる。人々は信用の上に社会を構築しているわけだから、嘘つきが混ざると相手を信用できなくなり、混乱に陥り、不安定になる。皆騙されるのが嫌だから、自分から相手を信用しなくなり、閉鎖的になり、人間関係が上手くいかなくなる、というわけだ。
 そのような考えはおおむね正しいとは思うが、信用社会とは、実際には嘘つきが混ざっていても機能する。日本人は正直だといわれることもあるが、社会が閉鎖的で、その内側のルールとしては正直でも、いわゆるその外側社会にまで正直であるかは疑わしい。あくまで狭い仲間内でのことを一般化して語ることはできない。信号を守っている国民が、正直であるかは別問題だ。
 特に日本人の場合は、オモテとウラ問題ということをよく指摘される。心のうちでは違うことを考えているように見えて、信用されていない。実際に約束を守るかどうかということもあいまいで、国際社会では何度となく約束を守らないとみられている。米国が方便で言っているわけではなく、そういう部分を指摘して、話を優位にするような方策を取る国がそれなりあるということでもある。実際にそのように見えるようだというのは確かそうで、日本人のうすら笑顔は信用できないということの象徴として語られることも多いようだ。
 まあ、外に向けて残念な国民であるというのは、実際には誤解だと思うのだけれど、国際社会というのは、まったく厄介なものである。日本人が特に嘘つきである可能性は特にありはしないが、そう思われがちあるだけでずいぶんに損しているらしい。まあ、儲かるばかりでは申し訳ないからそれでもいいのかもしれないが、単に損なら馬鹿みたいだ。
 しかしながら日本人だって本当は嘘が上手なんじゃなかろうかと思うことがある。僕自身は嘘が嫌いだから特にそう思うのかもしれないけれど、普段から同胞日本人から、いつも嘘ばかりつかれる経験があるからだろうと思う。それは何だといぶかる向きもあろうかと思うが、それは外でもなくお世辞や社交辞令である。そういうものは他国にも当然あることだけれど、日本人のそれは、なかなか巧妙かつ狡猾で、生活のあらゆる部分に浸透している。これを避けて生活することはほぼ不可能で、要するにこれを応用すると、国際社会でもそれなりに通用するんではないかと思うのである。要するに国際人というのは正直に見えるフリが上手いだけのことなんだから、本来的に嘘つきなのだ。日本人はそれに合わせて嘘がつけるようになればそれでよろしいという訳だ。
 本当に正直に生きるというのは、実は馬鹿である表明に過ぎない。日本人の狡猾そうに見える姿は、要するに馬鹿に見えるという比喩のことだろうと思われる。堂々と嘘の言える国際人の為に、日本の普段の姿を外でも見られるようにすることである。それはおそらく英語を含めた外国語問題よりもさらに重要である。しかしながら一点だけ正直に言うと、実に馬鹿げたことに過ぎないのだけれど…。
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あんがい静かだった歴史的な大勝利

2014-12-15 | 時事

 歴史的大勝劇は割合静かに終わった。解説は既にいろいろ出ているものとは思うが、これが選挙に行かなかった人を含めての、圧倒的な民意の結果となる。数の上からすると、先進国では非常に珍しい現象だとは思うが、北朝鮮や以前のイラクのような、絶対多数政権が生まれたことになる。事実上の独裁も可能な状態になったといえるが、所詮寄せ集めに過ぎないということもあるし、今まで見てきたように、肝心のものは先送り体質であるのに変わりは無く、チキンハートな政治運営のままでいるのではなかろうか。何でも決められるんだからサクサクとなんでも決めてしまった方が将来の日本の為になることばかりだが、どんどん状況が悪くなるのをそのまま手をこまねいて見ているだけの安定政権になるだろうと予想される。形だけの批判を受けても、そのままそれを利用して、あいまい路線を堅持することだろう。
 余分に受かった人々も当然いると思われるが、以前なら小泉チルドレンのような話題の人が生まれるということもあるのだろうか。第二の杉村大蔵のようなタレントも出てくるんだろうか。調子に乗るより控えめにするような、箝口令のようなものが敷かれるかもしれないし、やはりしばらくは静かな状態が続くかもしれない。何しろ皆年末で忙しいわけだし。
 形式が違うのでまったく同じ話ではないが、受験のようにいきたい人が多ければ倍率が高くなかなか入学できない状況になるが、いきたい人が少なければ、学校もライン以下の人も入学させざるを得ないということがあるんではないか。国会議員は定員が決まっているし、一応それ以上の人が立候補していたわけだし、落ちた人もあるから競争はあったのだけれど、こんなような状況であると、落ちるのは仕方ないけどとりあえず出なければならなかった人たちだって大勢いたわけで、しかるべき順番で希望さえすればなんとかなった人たちも多かったのだろうと考えられる。そういう姿が一強の形で現れ、また共産党のように必ず投票に行く老人会のようなところが躍進することになったということになる。それで特に発言力が高まることも無かろうが、皆弱いのだから一強と共存する形で、すべてを反対し続ける体制が整ったということだろう。沖縄の問題だけは痛ましい感じもするが、それが選択だったのだから、尊重して硬直するより仕方がないだろう。何年か後に世代的な賢人を待つより無かろう。
 政治的には何にも実効的なことはやらないまでも、原油価格の下落を受けて、経済的には好材料が揃いだしている。運の良い政権ということは言えるわけで、極端に余分なことをしなければ、しばらくは調子もいいことだろう。批判したところで馬耳東風で構わない政権の誕生ということが出来て、勝利の大義を果たした政局の天才、安倍さんは歴史に残ることだろう。ただ、これ以上のピークはおそらく無いわけで、内部的な再編を考えるような政治家が出てくるものなのかどうか、それだけが今後のカギとなるだろう。
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賞味期限を信じるか、自分の判断を信じるか

2014-12-14 | 

 談志のドラマを見ていたら、賞味期限切れの食材を冷蔵庫から出して人にやったり、またそれを平気で調理して食わせたりする場面があった。それはそれで面白いのだけれど、そうやって食う飯が上手くできた(天才)ということと、ある種の性格的な豪快さと、そしてたぶん言いたいことの一番重要な事は、誰かが設定した賞味期限の表示を信用するより、自分の判断を信用すべきだ、というメッセージがあるようだった。
 それはそれで談志の考えはたいへんに正しいものだと僕も思うが、やはり食わされる方は、弟子であったり、入門を希望するものであったりと、談志の行動に素直に断りを入れられるような立場の人間とは別だ。もっとも、それでも自分の判断で嫌だと言えるようなことが出来る人間を談志は認めたかもしれないのだが、しかしそれではお話が成り立たないので、やはり談志を信じて食うより道は無かったはずなのである。そういうところが何より引っかかるわけで、まあ、死にゃしないという度胸を試されるということと、やはり正しかった談志を尊敬すべきということになるんだろうか。
 ところで賞味期限だが、個人的には目安になっているとしても、多少のことは気にしない人の方が、やはり望ましいという気分は確かにある。杓子定規に表示だけを見て判断する人というのは、たぶん少数派であるだろう。しかしながら立場というのがやはりあって、自分が食うならともかく、ひとに食べさせる問題ということになると、賞味期限を守る人間は逆転して多数になるんじゃなかろうか。開けてみて、大丈夫そうだという自分の判断があっても、思いとどまる人が多いと思われる。これは信用問題というか不正問題ともからむし、責任感の強さとも関連があろう。また、これは世代によっても差が出るだろうし、若い人の方が、賞味期限を守る可能性が高いだろう。経験値の差というより、人間的な図太さの差という感じであって、タフさの違いということもあるかもしれない。さらに食べ物に対するもったいないという気持ちの強さには差があるのが当然で、談志のような判断というのは、貧困を体験したかどうかというのが、実は一番大きいのではなかろうかとも思う。
 自分の判断力を信じて行動する話というのは、食べ物に関しては眉唾ものであるというのは、そのような背景を指して推察できる。食べものにあたった経験があっても懲りずに賞味期限を守らないというのであれば、それはそれなりに愚かであるということにもなってしまう。実際のところ、どこまで自分を信じられるのかというのは、本当に嗅ぎ分けられる経験でしか語ることはできない。そういうシーンが入ったうえで判断をしているという演出があれば、自分を信じているというより、嗅覚などの人間としての能力が高い人間であるという話にしかならなかっただろう。自分を信じるという判断というのは、なかなか証明が難しい問題のようである。
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落語的人生

2014-12-13 | 境界線

 談志のドラマをやっていて、それを見た。生前のドキュメンタリーも見たことがあるし、なんかの文章も読んだ記憶がある。人物像をざっくりと描き出しているらしいことは理解できた。本人が死んでからそんなに時間がたっていないし、演じている役者も年代毎に三人で使い分けている。なかなかの再現の場面もあるし、やはりずいぶん違った印象のものもある。こればっかりは本人じゃないんだから仕方のないことだ。
 談志という人物のはねっ返り具合も面白いが、要するに個性的というかわがままというか、ずいぶんと変な人だったようだ。まあそれは性格ということもあろうが、落語が好きでまがったことが嫌いだったということなんだろう。戒律の厳しい演芸の世界、特に落語のような芸人の世界にあって、上下関係がありながら、師匠にも楯突くようなどうにもならん人だったようだ。これは師匠の小さんが偉かったようだ。要するにいろいろあるが、曲がったことが嫌いだからそうなるというか、我を曲げたくないから突っ張るということになるようだ。大人なんだか子供なんだかよく分からん人だが、小さんがどうでもいいこととした世間と折り合いをつけることには苦労をしたのではなかろうか。
 性格の所為が一番だろうが、体験としては戦争があるようだ。日本が戦争に勝つといわれて信じていたのに、それは真っ赤な嘘だった。大人なんて嘘つきだ、というわけだ。そういう話はよく聞くもので、教科書に墨を塗って書き換えたりすることの欺瞞にうんざりした人も多かったろう。だからそんな体験で談志が曲がったことを最後まで嫌ったというのは特別ではない。特別ではないが、この世代の共通の思いとしては、特別なものはあったかもしれない。戦争が無くったっていつの時代の大人でも子供に対しては多かれ少なかれ嘘つきであって、僕なんかもそんな風に思っていたから変わりはない。戦争というのは大事件だから、程度として問題ということになるんだろう。曲がったことが好きだという方がよっぽどの人という気もするから、人はもともと曲がったことはそんなに好きではなかろう。しかしながら大人の過程として、曲がったことを受け入れざるを得ないのが世間であり、折り合いをつけるというのは要するに自分に嘘をつくことだ。上手につければそんなに傷なんてつかないだろうけど、性格が厄介な人はいちいちいろいろ面倒なんだろう。そういう自分に嫌になりながらも、自分自身から逃げられない。そういう人の一生が落語家だったら、談志になってしまったということになる。苦労したかもしれないが、落語が好きで落語家になり、そうして自分が落語的な人生になってしまった。これは悲劇か喜劇かはたまたそれとは違うのか。ひとは喜んだからそれでよかったと考えるより仕方なさそうである。
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自分から逃げない覚悟が必要だ

2014-12-12 | 掲示板

 選挙になると、いや、選挙に限らずだが、政治的な話になると、どこそこの陰謀説に騙されるな、という話が出てくる。人々には思惑があるから、そうしたいという気持ちを指して言っているというのであれば、少しは理解できなくもないが、しかしそうであっても、陰謀ということになると、なんで? という疑問が先にわくのが普通だと思うのだけれど、その陰謀先は、巨大組織だったり、大企業だったり、アメリカだったり、フリーメイソンだったりする。まあ、ナチスみたいな、歴史的なアイコンだったりも時折する。なんだか、本当に安易だなあと思うわけだ。あんたたち、本当にそんなことでいいの? とかえって心配になる。哀れというか、なんというか…。まあ、それでも平和だからいいと言えばいいんだけれど、たぶん、どうにも何にもなんないんだけどな、と思うからなんだろう。
 厳密に言って陰謀というのは無いではない。そのための工作というのは実際にもある。どこがやっているのかというと、多くの場合マスコミだろう。話の道筋が無いと、共通理解が難しい。だから一定の陰謀をもって、お話を組み立てるということは普通にやる。事実も混ざるのでそれらしいが、事実が重要ではない。お話が出来さえすればそれでいい。これは王道の陰謀工作だと思われる。
 政府が陰謀を流すかというと、そういうことを本気でやっている国というのは北朝鮮くらいかもしれない。信用している人もたぶんいて、不思議なことに日本にもいるように見受けられる。陰謀というのはしかし、現実には普通には相手にされないことは、皮膚感覚として知っている人の方が多いだろう。人々は案外そんなに未熟ではない。間違った認識の人は多数いても、それはそれで別の話で、陰謀を流すような、つまり陰謀とはウソだから、リスクを冒す行為は、やりたくてもやりようが無い。夜の街の怪しい店なら、一夜の流れるものとしてやりうる行為であって、組織的にやれるような勇気のある政府なんて、おそらく先進国には存在しえないだろう。
 大本が嘘と知らずに、要するに無知や不勉強で、堂々とウソを言う場合はある。それは今の政府にもある。それは陰謀ではなくて、単に頭が悪いだけの事か、やはり組織としてのかじ取りの問題であろうかとは思われる。人が必ず本当のことを言う必要などは無いし、公式の場で本音を言うのはかえって愚かである社会であるから、必要以上にねじれた現実を信じて、発言するような人も居ることだろう。賢い選択なのか、仕方のないことなのか、それはその立場の人間しか知りようが無いだろう。
 例えばだか、仮に、日本はアメリカの陰謀通りの国だろうか? 
 アメリカの陰謀を流したいだろうスジの人々がいるとすると、おそらく大いに不満があることだろう。ある程度は、圧力をかけて、それが成功していることは事実としてはあるだろう。しかし、曲がりなりにも、日本国の選択を待って、やりたいことをやるしかやりようが無い。そうして不十分でありながらも、何とか方向性を錯誤しながらやっているだうことは、お互いに変わりのない立場だろう。完全に外れてしまえば、つきあいをやめるより無いわけで、最悪の場合、また戦争をやるより仕方ないのではないか。それが大人のつきあいということだ。
 ということなんだが、真面目に事実を見る力というのは、陰謀の中にはありはしない。自分で考えるというのは、そういう生易しいものではない。安易に逃げることなく事実を見つめる。それは最低限の個人のつとめであることだろう。
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社長を働かせるな

2014-12-11 | HORROR

 人には不正を働く人と働かない人がいると思われている。事実としてそのように見えるのだが、しかし事実をよく考えると、不正がばれた人とばれなかった人がいると捉えるほうが、より事実に忠実そうだ。自分が違うと思っているのは、単なる勘違いらしい。いや、絶対にそんな人はいないということは言えないので、そういう人は人間としてごく稀であるとか、非人間的な人である可能性を表明しているものと思われる。
 さて、だから人というのは不正を働く可能性のある生き物らしいのだが、より不正を働く可能性を助長している環境というものがあるらしい。それは姿勢が悪いというのが危ないらしい。椅子に座る時にだらしないと不正を働きやすくなるそうだ。逆にいうと、ちゃんと姿勢よく座っていると、不正を犯しにくい精神になりやすいんだそうだ。さらに正しい姿勢で座るためにも、狭いスペースで座ることが有効らしい。狭苦しい机に向かっていると、自然と姿勢が整うためらしい。
 実は机の広さと不正をはたらく確率は正比例するという。容易に想像が働くのは、社長の机と平社員の机かもしれない。権力の象徴で机の広さが決まりそうだけれど、要するに社長は不正を働きやすい環境に置かれている可能性が高い。そういう危ない状況を、おそらく自らと、周りは容認していると思われる。
 もっとも、机の上で何の仕事もしていない可能性も高そうで、仕事の上で不正を働くのかどうかは不明である。働いてない人が仕事の上で何ができるというのか。要するに社長に何もさせないことが会社にとって有用であるという経験則が、社長から仕事を遠ざけているのではないか。有能な社員がそのような選択をしているとしたら、それは恐ろしく賢い仕掛けではなかろうか。
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本当に勇気のある人間とは

2014-12-10 | 感涙記

 尋常でない仕事を残した完全主義者の手塚治虫だが、激しい嫉妬心をあらわにしたことでも有名である。次々に現れる新しい才能に嫉妬し、時にはその嫉妬ゆえに過当に批判し、人々を困惑させた。偉大な手塚の負の側面、ダークサイドとして語られることの多い手塚の性格であるし、手塚の生前には知る人ぞ知るという話であったため、死後しばらくたってぼつぼつとあらわれてきたこれらの逸話について、驚いた人も多かったのではなかろうか。明るい笑顔を絶やさず、しかしすさまじく忙しく仕事をこなした超人手塚と、そのイメージはあまりにもかけ離れていると感じる人も多いのかもしれない。また、世界に誇るマンガの神様としての手塚という、誰も異論を唱えることのない人物像に、影を落としていると感じる人もいるのかもしれない。
 しかしながら僕の感じる手塚像として、これはさらに手塚の人間的な偉大さの土台のような気がしてならない。激しい嫉妬心は、自分の自尊心の表れでもあろうし、さらに成長したいという願望でもあったろう。あくなき探究心と、そうして自分自身に対する素直な評価と葛藤、そうして誰よりも先んじて前を歩いていたいという焦燥感もあったであろう。そういう人間的な部分を持っているからこそ、本当に人間的なドラマを生み出すことが出来たわけだし、自分の殻を破る挑戦の繰り返しにも、自分自身を変革させうる柔軟性にもつながったのではないだろうか。
 さらに手塚が偉大なのは、嫉妬心に駆られて、心無い手紙などを書いてしまった後に、相手に詫びに出向いたり、内省することを書いたりしていることである。衝動的に抑えられないほどに感情を露出してしまった後に、開き直ることなく、そういう自分に向き合い、反省する勇気を持っていたということなのである。これこそが、普通の人間にはなかなかできない素晴らしさだという気がする。嫉妬心というのは誰でも抱く感情であるし、人々はそのために時折ひどく失敗もする。しかし内省するにおいて、そのことに素直に向き合えることは、あんがいに難しいことだったのではなかろうか。そういう自分と向き合う前に、逃げ出しくなる方が自然なのではないか。ましてや既に名声を手にしている立場の人間が、謝罪したりする行動までとれるものではない。子供っぽい感情と行動をとりながら、しかし理性的にも自分を眺める力を持っていたということが人間手塚の偉大なところで、そういうところが作品に反映されなかったはずは無いのである。手塚治虫の人間的な嫉妬心とその克服があったというのが、手塚の真に偉大な勇気の持ち主だった証であると思うのであった。
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衰退しているのか巨大なのかよく分からない

2014-12-09 | 雑記

 日本で力を持っているとみられる左派政党は事実上無いか、もしくはかなり衰退している。しかし世界的な潮流としても、左派政党の衰退は一般的なことであるらしい。米国の二大政党はどちらも保守的だからこれは除外して考えていいいが(それにしても変な国だ)、ヨーロッパには左派政権がたくさんあったはずである。それが、いつの間にか今は左側の支持はかなり弱くなった。左派の思想が衰退したというより、左派政権の失政が、国民の支持を失っている結果が大きいのだという見方がある。実際上は左派の政権であっても、自国民のみに利益をばらまく政策を打てなくなっているからであって、だから左派的でない普通のことをやってしまうと、いわゆる裏切りということになって支持を失ってしまう。ひとくくりにグローバル化した国々の関係があって、左派政権に陥ってしまう国民は単純に損をすることになる。自己中心的な政策を打つ財源が無いし、またそのようなことをしていると競争に負け貧しくなる。企業も容赦なくよその国に逃げる。北欧の大企業の組合国家のような所以外では、左派が成り立たないということのようだ。また、左派的な政権が生きているように見えて、実際の政策は、事実上大きく右へと舵を切っている現実もあるようだ。競争に負けたところが生き残れないのは、思想を超えた現実だからだ。
 もちろん考え方の受け皿としては、今なお存続してはいる。しかし、政権与党を取ることは、もう考えにくいところまで来ているのではないか。
 というようなドキュメンタリーを見た。なるほど、この番組を作った側にはジャーナリズムとして左派の必要性を訴えているようではある。それでいいのか世界!である。でもまあ、圧倒的な左派政権の中国が、圧倒的な格差社会であることをみんな知っているわけで、まっとうな左派政権の北朝鮮が、またああいう現状であるのをみんな知っているわけで、まあそれらの国が特殊だとしても、バランス感覚として選択の結果そうなっているのは明らかそうに思われる。
 しかしながらことがそう簡単でない国は、ほかならぬ日本ということである。安倍政権は、イメージ的には右派であるかのように伝播するマスコミは多いのだが、実際の政策は、単なるばらまきである。それもほとんど八方美人で、くまなく配る心遣いという感じだ。これはヨーロッパならずとも、本来の左派政権の役割と同じであろう。
 実際には自民党がかなり左側の政策を行っていることは、日本の自国民には無自覚らしいけれど、他の野党というのはそれよりも左なんだから、一般的にみてずいぶんな極左であるといえる。そのように極端では、小さな党であってむしろ当然のことかもしれない。日本の場合は左派が衰退したというよりも、左派しかいないので極左が小さく見えているだけなのかもしれない。右派を選択したい人がいたとしても、存在が無いのだから選びようがない。これまた不思議の国日本という結びで、申し訳ない気持ちになってしまった。
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考えないことで皮肉が伝わる 96時間

2014-12-08 | 映画

96時間/ピエール・モエル監督

 監督が本当にまじめに映画を作ったのか疑わしいところはあるが、親子の縁とバイオレンスを結びつけた痛快作といっていいかもしれない。あくまで作り物のマンガみたいな映画だという割り切りは必要かと思うが、むちゃくちゃなんでそれでいいのだろう。
 表面的ににしか愛されておらず、おそらく煙たがられてもいる元父親が、それでもストーカー行為を働いて、しかし偶然それが功を奏して娘が不幸な状況に落ち込んでしまった危機を、無茶をして救出してしまったというお話である。短くしても無茶が分かるが、そうであるが大変に素晴らしい話だ。内容的にはまったく薄っぺらい軽薄さがだけが残るわけだが、そういうところはかえって潔いという考え方もできるかもしれない。社会悪に落ち込むバカな人々だけれど、しかし多くの人が殺されても助けなければならないという教訓は得られる。人の命というのは人によって、最初からまったく価値の違うものなのだ。
 少ない手掛かりで、なおかつ時間が限られた中で、その上たった一人で巨大な組織に立ち向かって軽々しく勝ってしまうというのは、マンガだから素晴らしい爽快感があるわけで、突っ込みを入れて揶揄すべきことではないということは分かる。求めている娯楽が違うのだ。昔の西部劇だって、敵にはどんどん拳銃の弾が当たるが、正義の味方に数倍の集中砲火がなされても、かすりもしないわけだ。それでいいのだ、バカボンなのだ。要するに馬鹿映画だということだ。それが映画の正当な歴史なんだろう。
 しかしながら、そういう皮肉については、おそらく見る側の人間が勝手に割り引いて面白がってしまう人がほとんどではないだろうか。どう考えてもこの父親は娘から尊敬されてないし、表面の上でしか愛されていない。これだけのことをして命を懸けて愛をささげているにもかかわらず、金を持った新しいパパこそが必要な人間なのだ。そういう表面的な人間模様しか描かないことで、皮肉にも人間の愛のあり方をなんとなく考えてしまう。いや、考えないような作りになっているのに、やはりそう考えてしまうのだ。そうしてやはり母親が父親を捨てたように、このような人間は愛されることは無いのだ。徹底的に事実を描かないことでそのような人間の悲哀がにじんでしまう。映画というのは実に変なものなのであった。
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愛無き者には分からない   劇場版・魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語

2014-12-07 | 映画

劇場版・魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語/新房昭之・宮本幸裕監督

 今となっては誰のお勧めでこの映画を手に取ったのか忘却の彼方の話なのだが、身近な人ではなかったことだけは確かだろう。ずいぶん若い人だったのだろうと推察されるわけだし、それもたぶん男だということくらいしか分からない。いや、女性であってもこのような価値観に共感を持つ人がいても不思議ではなかろうが、これは男性の持つ少女性へのあこがれのような幻想世界なので、屈折した理解になってしまうのではなかろうか。もちろん僕自身であってもこれは理解の範疇を超えていて、良いとか悪いとかいう判断さえ不能だ。ただただそうですかということを確認するのみで、呆れてつれあいもソファーで爆睡してしまっていた。誠に申し訳なかったが、一応は確認して観ておくのも人生ということなんですいません。
 ということなんだが、せっかくの名作らしいがその価値をまったくわからないものが観ても、たいして意味のない作品であることは間違いなかろう。もとになっている作品も背景も歴史も知らない。僕は古典的な名作の「うる星やつら/ビューティフル・ドリーマー」については、タイムリーで観てそれなりに感心した世代だけれど、そういうこととの関連についてはまったくよく分からなかった。そういう連想を普通にする世代とは、やはり違うのではあるまいか。というか、まったく違う価値観という気もするんだが、果たしてどうなんだろう。
 アニメだから絵の世界なんだけれど、二次元というものに徹するアニメというのはかえって少ないかもしれない。平面の絵であっても立体的な質感を描くというのが一般的であって、そういう世界だからこそ絵であっても共感がたやすくなるような気がする。しかしこの作品を見ていると、観ている者自身が画面の中の世界へ入ることが無く、あくまで対面で観ている感覚がどこまでも続いているような気分になった。そういうものだというのは分からないではないのだが、あくまで絵の世界の人々が絵の世界で生きていくしかないということを完全に割り切る必要がある。それは人間の姿をしている少女たちが、あくまで絵であるから存在できるという感じかもしれない。水槽の中の金魚は川に放しても金魚だが、アニメの少女たちはコスプレしても再現が不可能だ。たとえは適当でないかもしれないが、そのような決定的な違いが改めて分かるわけで、そのような愛情を持つ人でなければ、やはり彼女たちの生きている姿を見ることが出来ないということなのかもしれない。愛の無い僕のような人間に、その質感をつかめないのは当然というべきなのだろう。
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もっとも罪深い人たちとは

2014-12-06 | 雑記

 僕を知っている人なら自明の事なんだが、僕は基本的に利己的な人間である。自分が良ければそれでいい。本心からそう思っているところがある。意識しているわけではないが、ひとの事を考える力が無いし、考えている余裕が少ない。気になることもないではないが、そういうことに時間を使いたくないし、気にしないように意識することの方が多い。自分のことでさえ興味が無くて、だからひとの分からないことなんかを考えている時間がもったいない。というか、どうせ分かりえない訳だし…。結果的に自然に利己的になる。開き直っているつもりはないけど、ひとの事をあれこれ思うのが普通の神経だから、わざと遮断して平穏を保っているということかもしれない。だから要するに利己的なわけだ。
 しかしながら、一点だけくらいは人の事を考える、気を付ける、気を遣う、ことがある。それはトイレットペーパーなんである。十分に本体に余裕がある場合であっても、予備がちゃんと有るか無いか、それが気になるということか。家ではほとんど問題ないが、職場はもちろん、公共の場であっても、予備が気になる。セッティング可能な設備なら補充が出来ているか。無い場合なら目につく範囲にちゃんと予備が備わっているのか。相当に緊急な場合でない限り、すばやく確認する。大小兼用のトイレの場合だと、そういう状況が上手くいっていない時には、店の人に構わず勝手に補充する。無い場合は、出てから店員に注意する。店員が聞いたのちに動いてない場合には、再度注意することもある。気になるんだから仕方ない。もしものことが誰かに起こったら、大変じゃないか! そういうことがどうしても気になるということなんだろうと思う。利己的な自分に反する精神だと思うのだが、こればっかりは重大という気がする。このことに無頓着な人類が、もっとも罪深い人種だと僕は思っているのである。
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日本でも一定の議論を待つ

2014-12-05 | 境界線

 少し前の話になるが、米国のブリタニーさんという女性が、脳腫瘍の為に尊厳死を選び、その是非をめぐり世論を分断する議論になった。日本でも報道で観た覚えがあり、飛び火して関心を抱いた人も多いことだろう。表現が尊厳死となっていたが、事実上医師の幇助を受ける安楽死である。もっと平たく言うと、自殺ということにもなるが、これはまた違った議論を呼ぶのであくまで安楽死問題としておこう。だからそのようなことが認められてもいない日本では議論しにくいということもあるのかもしれない。さらに日本の安楽死は、延命処置をしないものを指している場合があって面倒なんだが、それは普通は自然死ということになるらしい。言葉の前提を調節しないと同じ土俵で議論できない問題ということでもわかるが、やはり人の死を扱うことに人々はデリケートである表れでもあるだろう。
 ブリタニーさんの脳腫瘍というのは手術が不可能なタイプのものらしく、要するにそのままの自然死を待つ状態と捉えていいと思う。さらに薬で痛みを緩和するにも限界があるらしく、かなりの苦痛であるようだ。夫はもちろん子供もいて、そういう状況で安楽死を選択したからこそ、議論になったわけだ。その意味はよく分かるし、違和感を持つ人がいることも、同時に分からないではない。ブリタニーさんはそのような自分の決断をネットに告白したからこそ火がついたのだが、その是非についても議論があったことだろう。真意は知らないが、自分の死と向き合うにあたって、やはり疑義を持っていただろうこともうかがえる。その上での自分の選択であるという主張に、世間が反応したということになる。反応の大きさについては予期していたとは考えにくいが、しかし、一定の反応が彼女にどのような影響を与えたことだろうか。現在は、すでにブリタニーさんはこの世にいないものと思われる。
 僕自身も議論をしたいという気分があるから取り上げているわけだが、それよりも何よりも、やはり日本での議論が必要だという感覚がある。死というのは国や文化で捉え方がかなり異なる。その上で日本なりに法整備が進むことが望ましいと思う。安楽死というとびっくりしてしまう人も多いのかもしれないが、当事者としては、苦渋の選択としてやはり望んでいる人が当然いるはずなのである。その選択すら無いし、事実上無視をされるという苦痛まで背負ってしまう個人のことを考えると、議論くらいしたっていいんじゃないかという気持ちさえ抱いてしまう。
 しかしながら、安楽死の問題でもう一つ目を向けなければならないのは外でもなく、医療の側の立場もある。事実上の自殺の幇助に、たとえ仕事とはいえ、苦痛が伴わないはずがない。はいそうですか、では注射しますと、簡単に引き受ける医師がどれくらいいるものなのだろうか。また、実行した後にもしこりのようなものが、精神的に残る可能性があるのではないか。
 オランダのような国では安楽死は合法化されている。ヨーロッパで死にたくなった人は、オランダに駆け込んでいくという。なんと、その理由が病苦のみの限定でもないという。それを進んでいるとかどうとかいうつもりはないんだけれど、さらにそのために問題が起こっているだろうことも当然考えられるわけだが、それすらも知らずに日本にいて無頓着に議論もできない人生なんていうことが、さらに深い問題という気がしないではない。日本でこの問題が本当に取り上げられることがあるとしたら、いったい何人のブリタニーさんが必要なんだろうか。
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言えたら楽なんだろうな、と思うこと

2014-12-04 | ことば

 本来「ありがとう」という言葉は、いい言葉だと僕も思ってはいる。美しい響きを持っているし、意味としても普遍的に素晴らしいものだ。だからこの言葉を大切にして、マナーという以上に愛している人だっているだろうことは容易に想像できる。だから、それはそれでいいんだという前提があってのことだという断りが必要なんだが、しかし、これの必要以上の乱用に、戸惑いというか、嫌な感情を持ってしまうことの方が残念なのかもしれない。何を言いたいかというと、やたらにありがとうを言う人が、嫌いなんである。というか、少し距離を置いておきたい。少なからぬ人が、たぶんだけれど、そう感じておられるんじゃなかろうかと思うのだが、どうなんだろう。どうしてまた、こうもまあ、こんなにありがとうがあふれる世の中になったのかな、とも思うわけだ。会話の最初から最後までありがとうの連発で、ありがたがられることなんて何にもしてないのに、ありがとうをたくさん言われる。せっかくのいい言葉が、どんどん汚れていくような感覚を覚える。さらに明るい笑顔だったりするわけで、これもだんだんウンザリする。この場から早く立ち去りたいような衝動を何とか抑えながら、かろうじて体勢をキープしている感じかもしれない。僕なんかに向かって安易に感謝などしないで欲しいものだ。そりゃあ、感謝されてうれしいことも無いではないが、そういう場合と明確にありがとうを分けて使って欲しい。それがありがとうという言葉に対しての、最小の敬意ではあるまいか。
 それと似たような感覚を覚えるものに、「夢」という言葉もあるように思う。ちょっと前からだけど、あなたの夢を語ってくれとか、自分の夢を語るような人がやたらに増えているように思う。このあいだ亡くなった高倉健に生前インタビューした映像が流れていて、やはり夢は何だという問いが投げかけられていた。年配の人に夢を聞く行為に違和感があるし、かえって失礼だ。その後健さんは死んだから、まるで夢破れて死んでしまったみたいではないか。
 若いから夢を語りすぎるのも、やはりシラける。そんなに夢が大切なもんなんかな、という疑問さえわく。いや、夢は持っていてもいいし語ってもそりゃあ場合によっては楽しいこともあることは知ってるんだけど、そういうものをさらに美化して語らせたり共有したりすることに、なんとなくの戸惑いを覚える。英語のdreamと日本語の夢というのは厳密にいうと少し違う気もするし、しかし問う者にとっての夢とは純粋にdreamのつもりらしいのも気になる。いや、英語だってdreamには少しくらいの恥じらいの表現だってあるはずなんだが、いわゆる米国的というか、疑いのない響きがおかしいことくらい、自覚してほしいと思う。当然そういう前提があって語られるべきが「夢」であって、僕はそういう夢を持ちたいだけのことなんである。
 とはいえ、高島俊男などは、編集者などに「お世話になっております」といわれると「お世話なんぞした覚えはない!」と叱ったらしい。僕はそういう老人になりたいかといえば、必ずしもそうではない。そういう物言いは非常に好ましい爺さんだとは思うが、僕はそのようにふるまいたいわけではない。要するに言えないからなんとなくたまってきて、嫌な感じが消化できていない、ということなんだろう。だから、それなりに以上終わりである。ごめんなさい。
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とりあえずが難しいらしい

2014-12-03 | 

 日本で暮らすようになる外国人が、割合早い時期に覚える日本語に「とりあえずビール」というのがあるらしい。頻繁に聞くからということと、やはりこれが便利だという実感と、日本らしい面白さというのがあるんだろうと思う。ここで銘柄をいろいろいう店もあるけど、こういう場合勝手に持ってきていい問題であるとも思うが、まあ、面倒なのでそれは置いておこう。
 なんかに書いてあったが、ザッケローニ監督なんかは、特にイタリア料理店でなくてもよかったらしいが、とりあえず生ハムは注文してくれ、と言っていたらしい。その他の細かいオーダーはまかせてしまうらしいけれど。この場合はそれさえあれば文句無い、というか。やっぱり好きだったというだけの話かもしれないが、考えようによっては、自分の欲しいものを言っているのだから、相手はそれ以上気遣い無しでいいよ、という心遣いのような感じもしないではない。その上とりあえずビール的な気安さもある。まあ、どんな店にも生ハムがあるものかは僕は知らないけれど…。
 僕はビールを頼む際、やはりちょっとアテが欲しいと思うようで、とりあえず早いものなんか持ってきて、という場合が多い。店のおやじなんかだと、ヘイとか言って適当に見繕ってくる場合もあるわけだが、御用聞きの青年だとかお姉さんだとかだと、これが多少テンポ的に時間がかかったりしてまどろっこしい。とにかく注文してくれといい、じゃあお勧めはなんだ?と聞くと、カニなんかいいですよ、みたいなことを言われる。オイオイ、って感じになって、注文したくなくなる。すぐに出てくるんなら何でもいいよ、と言ったら大量のポテトサラダが出てきて、さらに付け出しがポテトサラダだった時もあった。怒りというか呆れというかげんなりするが、まあ、ちゃんとしてない僕が悪かったのだろう。
 でもまあ、塩辛が出てくると、もう少し後でいいけどと思うし、肉じゃがなんかだと、実はあんまり好みじゃないし…、という感じだから、まあ、めんどくさいには違いない。たとえばほら、タコぶつとか板わさとか、ビールだから素直に、枝豆とかカクテキとかでもいいんだけどね。無けりゃ、漬物でもキャベツでも嬉しいもんだけどな。じゃあ、そういいなよ、ということだろうけど、あくまで適当に持ってきてもらいたいわけで、そこのところが難しいのである。いや、簡単な話だと思うんだけど…。
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