カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

愛と悲哀の一人カラオケでは…

2014-12-23 | 音楽

 世代的な問題もあるし、お仲間の問題もあろうが、カラオケとの馴染みはそれなりにある。歌うのは嫌いではないし、最近はそういう機会が激減したとはいえ、年単位で数えると、やはり時々歌う。要するにカラオケは場末のスナックで数人の仲間と歌うもの、という感じが一番しっくりするかもしれない。
 一人カラオケの存在を知らない訳でもない。少し前からそういう風習があるらしいとは聞いていた。テレビのドキュメンタリーなんかも見たかもしれない。好きでやっているのならそれでいいし、楽しんでいる生態があるんなら、さらにいいことである。おひとり様で楽しめる文化が増えることは、多様性として生きやすい世の中になっている可能性もある。
 しかしながら一人カラオケの目的というか、本当の実態を知っていた訳ではなかった。自分のカラオケの感覚からいって、未知の歌の練習にもなるかもしれないとは考えたことがある程度だ。知らない歌を絶対歌わないわけではないが、酔っているからなんとかその場がなるだけのことで、実際にはちゃんと歌えるわけが無い。歌ったことが無くても、曲を聞いたことがあればなんとかなりそうというのはあるけれど、やはり流行りの歌のようにテンポや歌詞の言い回し早いものは、どうにもお手上げということになる。
 ところが一人カラオケの実態というのは、練習とは根本的に違うらしい。そういうことを聞いて、オジサンはやはりなんとなくハッとする訳だ。まあそうだろうと漠然と思っていることとも、なんとなく改めて違うものだろう。カラオケの価値観として上位にあるモノ。それこそが一人カラオケの世界だということのようだ。
 考えてみると集団でカラオケを歌う場合、確かに縛りのある場合が多い。これは年配者でも若年層でもそうそう変わりは無いようで、出張なんかだとその場所にちなんだものとか、その場にいる中心人物の馴染みの世代の歌だとか。要するにその時にあった選曲をできる能力も問われているわけだ。歌が上手いのもそれは芸だが、上手いそのものは実は本当に求められている要素ではない。横着な言い方をすると、場合によってはあまり上手く歌いこなせないように注意して歌ったりすることも当然しなくてはならない。酔って外す方が、いわゆるウケるんならあざとくそうするだけのことだ。それが暗黙の世渡りの術だ。
 一人カラオケには、そういう浮世の義理がカラっとすべて無いわけだ。好きな歌を十回歌おうが、まったく歌えないのをでたらめに歌おうが、それはすべて自由な世界だ。むしろ歌と自分に向き合うことに、実にシンプルに忠実な訳だ。カラオケという文化の発祥の文化からの進化形として、行くべき方向性の上位にあって当然だということらしい。なるほどおみそれしました。
 ということでよく分かりましたが、行ってみっかな~というのは、特にその気にならない。通勤で車の中で時々歌うことがあるんだが、それで僕には事足りているということなのかもわからない。
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