カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

考えないことで皮肉が伝わる 96時間

2014-12-08 | 映画

96時間/ピエール・モエル監督

 監督が本当にまじめに映画を作ったのか疑わしいところはあるが、親子の縁とバイオレンスを結びつけた痛快作といっていいかもしれない。あくまで作り物のマンガみたいな映画だという割り切りは必要かと思うが、むちゃくちゃなんでそれでいいのだろう。
 表面的ににしか愛されておらず、おそらく煙たがられてもいる元父親が、それでもストーカー行為を働いて、しかし偶然それが功を奏して娘が不幸な状況に落ち込んでしまった危機を、無茶をして救出してしまったというお話である。短くしても無茶が分かるが、そうであるが大変に素晴らしい話だ。内容的にはまったく薄っぺらい軽薄さがだけが残るわけだが、そういうところはかえって潔いという考え方もできるかもしれない。社会悪に落ち込むバカな人々だけれど、しかし多くの人が殺されても助けなければならないという教訓は得られる。人の命というのは人によって、最初からまったく価値の違うものなのだ。
 少ない手掛かりで、なおかつ時間が限られた中で、その上たった一人で巨大な組織に立ち向かって軽々しく勝ってしまうというのは、マンガだから素晴らしい爽快感があるわけで、突っ込みを入れて揶揄すべきことではないということは分かる。求めている娯楽が違うのだ。昔の西部劇だって、敵にはどんどん拳銃の弾が当たるが、正義の味方に数倍の集中砲火がなされても、かすりもしないわけだ。それでいいのだ、バカボンなのだ。要するに馬鹿映画だということだ。それが映画の正当な歴史なんだろう。
 しかしながら、そういう皮肉については、おそらく見る側の人間が勝手に割り引いて面白がってしまう人がほとんどではないだろうか。どう考えてもこの父親は娘から尊敬されてないし、表面の上でしか愛されていない。これだけのことをして命を懸けて愛をささげているにもかかわらず、金を持った新しいパパこそが必要な人間なのだ。そういう表面的な人間模様しか描かないことで、皮肉にも人間の愛のあり方をなんとなく考えてしまう。いや、考えないような作りになっているのに、やはりそう考えてしまうのだ。そうしてやはり母親が父親を捨てたように、このような人間は愛されることは無いのだ。徹底的に事実を描かないことでそのような人間の悲哀がにじんでしまう。映画というのは実に変なものなのであった。
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