カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

賞味期限を信じるか、自分の判断を信じるか

2014-12-14 | 

 談志のドラマを見ていたら、賞味期限切れの食材を冷蔵庫から出して人にやったり、またそれを平気で調理して食わせたりする場面があった。それはそれで面白いのだけれど、そうやって食う飯が上手くできた(天才)ということと、ある種の性格的な豪快さと、そしてたぶん言いたいことの一番重要な事は、誰かが設定した賞味期限の表示を信用するより、自分の判断を信用すべきだ、というメッセージがあるようだった。
 それはそれで談志の考えはたいへんに正しいものだと僕も思うが、やはり食わされる方は、弟子であったり、入門を希望するものであったりと、談志の行動に素直に断りを入れられるような立場の人間とは別だ。もっとも、それでも自分の判断で嫌だと言えるようなことが出来る人間を談志は認めたかもしれないのだが、しかしそれではお話が成り立たないので、やはり談志を信じて食うより道は無かったはずなのである。そういうところが何より引っかかるわけで、まあ、死にゃしないという度胸を試されるということと、やはり正しかった談志を尊敬すべきということになるんだろうか。
 ところで賞味期限だが、個人的には目安になっているとしても、多少のことは気にしない人の方が、やはり望ましいという気分は確かにある。杓子定規に表示だけを見て判断する人というのは、たぶん少数派であるだろう。しかしながら立場というのがやはりあって、自分が食うならともかく、ひとに食べさせる問題ということになると、賞味期限を守る人間は逆転して多数になるんじゃなかろうか。開けてみて、大丈夫そうだという自分の判断があっても、思いとどまる人が多いと思われる。これは信用問題というか不正問題ともからむし、責任感の強さとも関連があろう。また、これは世代によっても差が出るだろうし、若い人の方が、賞味期限を守る可能性が高いだろう。経験値の差というより、人間的な図太さの差という感じであって、タフさの違いということもあるかもしれない。さらに食べ物に対するもったいないという気持ちの強さには差があるのが当然で、談志のような判断というのは、貧困を体験したかどうかというのが、実は一番大きいのではなかろうかとも思う。
 自分の判断力を信じて行動する話というのは、食べ物に関しては眉唾ものであるというのは、そのような背景を指して推察できる。食べものにあたった経験があっても懲りずに賞味期限を守らないというのであれば、それはそれなりに愚かであるということにもなってしまう。実際のところ、どこまで自分を信じられるのかというのは、本当に嗅ぎ分けられる経験でしか語ることはできない。そういうシーンが入ったうえで判断をしているという演出があれば、自分を信じているというより、嗅覚などの人間としての能力が高い人間であるという話にしかならなかっただろう。自分を信じるという判断というのは、なかなか証明が難しい問題のようである。
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