カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

ちゃんぽんが旨いというだけの事

2014-12-30 | 

 今さらながら、ちゃんぽんへの距離感の話。
 食いもんなんだから自分が良ければそれでいいというのは大前提。文化もあるし、庶民的だがそれなりのごちそう感覚があるのは、ちゃんぽんとしての背景にはある。さらに、旨い不味いは確かにあるんだけど、そういうことで、多少のブレがあっても、ちゃんぽんとしてはそれでいいという存在理由はある。また、もっと言うと、「長崎」という肩書はブランドとしてあるものの、必ずしも長崎である必要性というものはあり得ない。そんな限定に意味のないことは、長崎人で無くとも人間心理として共有すべき最低限の事だろう。しかしはあっていいが、なにを狭量なこと、であるということに過ぎないわけだ。
 ということで、僕はちゃんぽんが好きなんであるが、いつも満足して食べている訳ではない。自分の体調が一番の理由ではあるにせよ、その時にあわないちゃんぽんとの出会いというのはそれなりにある。場数の問題であるということは、それはそうだが、残念ということにおいても、ちゃんぽんとの付き合いではそれなりに多いわけだ。
 そうではあるが、しかし僕が良いと言っても、それは僕なりに自信があると言っても、やはりそんなに意味のあるものではない。背景が違いすぎるし、何より個人というのは、突き詰めたら本当に共有できるということが不可触なことは分かり切っている事実だ。前提の話ばかりしているけれど、ちゃんぽん文化そのものは、実はそういうことで成り立っている食文化なのではないか。ラーメンのように若くないし、しかし蕎麦のように厳格でもない。うどんとはそもそも別で、ソーメンや焼きそばでも違う。
 要するにちゃんぽんなんであるが、だからそんなに肩肘張ったものでは最初から無い。ノスタルジーや地域性はあるにせよ、そんなことで生き残っている食文化ではない。しかし確実に言えることは、庶民的だけど、ちょっと豪勢だったり量が多かったりするけれど、でも単純に旨くて腹いっぱいのご馳走だ、ということだ。だから、僕のちゃんぽんの満足感は、そういうことであるにすぎない訳だ。
 もちろん、現在はそれ以外のちゃんぽんの存在はある。それも、大筋で認める。だけれど、ちゃんぽんの楽しさということで考えると、僕の言っている意味というのはおのずから収斂され理解されることではなかろうか。
 今日も必ずちゃんぽんを食べるわけではない。しかし、ちゃんぽんを食べる喜びは、そのような基本形があるからこそ、活き活きと旨いということになるわけである。
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