カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

落語的人生

2014-12-13 | 境界線

 談志のドラマをやっていて、それを見た。生前のドキュメンタリーも見たことがあるし、なんかの文章も読んだ記憶がある。人物像をざっくりと描き出しているらしいことは理解できた。本人が死んでからそんなに時間がたっていないし、演じている役者も年代毎に三人で使い分けている。なかなかの再現の場面もあるし、やはりずいぶん違った印象のものもある。こればっかりは本人じゃないんだから仕方のないことだ。
 談志という人物のはねっ返り具合も面白いが、要するに個性的というかわがままというか、ずいぶんと変な人だったようだ。まあそれは性格ということもあろうが、落語が好きでまがったことが嫌いだったということなんだろう。戒律の厳しい演芸の世界、特に落語のような芸人の世界にあって、上下関係がありながら、師匠にも楯突くようなどうにもならん人だったようだ。これは師匠の小さんが偉かったようだ。要するにいろいろあるが、曲がったことが嫌いだからそうなるというか、我を曲げたくないから突っ張るということになるようだ。大人なんだか子供なんだかよく分からん人だが、小さんがどうでもいいこととした世間と折り合いをつけることには苦労をしたのではなかろうか。
 性格の所為が一番だろうが、体験としては戦争があるようだ。日本が戦争に勝つといわれて信じていたのに、それは真っ赤な嘘だった。大人なんて嘘つきだ、というわけだ。そういう話はよく聞くもので、教科書に墨を塗って書き換えたりすることの欺瞞にうんざりした人も多かったろう。だからそんな体験で談志が曲がったことを最後まで嫌ったというのは特別ではない。特別ではないが、この世代の共通の思いとしては、特別なものはあったかもしれない。戦争が無くったっていつの時代の大人でも子供に対しては多かれ少なかれ嘘つきであって、僕なんかもそんな風に思っていたから変わりはない。戦争というのは大事件だから、程度として問題ということになるんだろう。曲がったことが好きだという方がよっぽどの人という気もするから、人はもともと曲がったことはそんなに好きではなかろう。しかしながら大人の過程として、曲がったことを受け入れざるを得ないのが世間であり、折り合いをつけるというのは要するに自分に嘘をつくことだ。上手につければそんなに傷なんてつかないだろうけど、性格が厄介な人はいちいちいろいろ面倒なんだろう。そういう自分に嫌になりながらも、自分自身から逃げられない。そういう人の一生が落語家だったら、談志になってしまったということになる。苦労したかもしれないが、落語が好きで落語家になり、そうして自分が落語的な人生になってしまった。これは悲劇か喜劇かはたまたそれとは違うのか。ひとは喜んだからそれでよかったと考えるより仕方なさそうである。
コメント
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