カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

変わらない人間性が透けるということ   96時間リベンジ

2014-12-20 | 映画

96時間リベンジ/オリビエ・メガトン監督

 ひどい作品のさらにひどい続編を見てああだこうだ言うのもなんだが、それなりに吹っ切れた気分になるのと、期待を裏切らず薄っぺらな状態のまま何も考えずにひどいので、さらに呆れて楽しめた。まったく陳腐な連中である。
 こういう漫画的な作品はしかし、繰り返しになるが、その偏見に満ちた単純さにおいて、かえっていろんなことを考えさせられるようになる。これは前作で殺されてしまった悪人にも家族がおり、その死を悲しむあまり善人の主人公に対して復讐をしようというスジを中心にしている。この設定は誠にごもっともで、主人公が自己中心的に悪人だからと言ってたくさん人を殺したわけで、殺された人にも家族がいて、その死を深く悲しむあまり集団で狂暴になって主人公を襲うのはごもっともな話ではないか。主人公側としては凶悪な連中が組織的に復讐してくるわけで、個人で戦うハードルが高くなって大変そうに見えるということだけが、課題の大きなアクションの道具に過ぎないのだけど、さらに家族の人質という問題にも悩まされ、なんとなくうやむやに解決しながら悪人たちの殺人は増えていく。不条理に人の命がないがしろにされ、悪魔のような存在として死体を量産してしまう。悪い奴だから死んでいい理屈というのは、先に悪さをしたという理由のその一点にありそうだけれど、だから歴史的に戦争が終わらない理由までも考えさせられることになる。今のところ悪魔的に主人公側が一方的に強いので一方的な死者の山が出来ているということに過ぎないが、しかし主人公側にも被害者が出ると、さらに弔い合戦が永遠のループとして循環してしまうのではないか。そうならないためにも悪の皆殺しが容認されているというのであれば、それはすなわちナチスのような思想とも相通じるものがあると言え、さらにアメリカ軍が無差別に日本の民間人を大量に虐殺した感情とも通じる根拠が見える。このようなアクション活劇の根本に流れる思想というのはそういうことで、さらにそれが彼らの娯楽なのである。
 まあ、そういうことを無自覚だから平然とこのような映画が作られているわけで、娯楽だからそれでいいけれど、昔も今もやはりそう簡単に人間的な本質というものは変わりはしないのだろう、ということが学習できるわけだ。今の人間はまともにそのような本性を表に出すことにためらいがあるものだが、娯楽であるならばさらけ出しても仕方なかろう。映画というものを作る背景にはそのような思想がどうしても透けて見えてしまうということになるだろう。
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