カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

愛無き者には分からない   劇場版・魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語

2014-12-07 | 映画

劇場版・魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語/新房昭之・宮本幸裕監督

 今となっては誰のお勧めでこの映画を手に取ったのか忘却の彼方の話なのだが、身近な人ではなかったことだけは確かだろう。ずいぶん若い人だったのだろうと推察されるわけだし、それもたぶん男だということくらいしか分からない。いや、女性であってもこのような価値観に共感を持つ人がいても不思議ではなかろうが、これは男性の持つ少女性へのあこがれのような幻想世界なので、屈折した理解になってしまうのではなかろうか。もちろん僕自身であってもこれは理解の範疇を超えていて、良いとか悪いとかいう判断さえ不能だ。ただただそうですかということを確認するのみで、呆れてつれあいもソファーで爆睡してしまっていた。誠に申し訳なかったが、一応は確認して観ておくのも人生ということなんですいません。
 ということなんだが、せっかくの名作らしいがその価値をまったくわからないものが観ても、たいして意味のない作品であることは間違いなかろう。もとになっている作品も背景も歴史も知らない。僕は古典的な名作の「うる星やつら/ビューティフル・ドリーマー」については、タイムリーで観てそれなりに感心した世代だけれど、そういうこととの関連についてはまったくよく分からなかった。そういう連想を普通にする世代とは、やはり違うのではあるまいか。というか、まったく違う価値観という気もするんだが、果たしてどうなんだろう。
 アニメだから絵の世界なんだけれど、二次元というものに徹するアニメというのはかえって少ないかもしれない。平面の絵であっても立体的な質感を描くというのが一般的であって、そういう世界だからこそ絵であっても共感がたやすくなるような気がする。しかしこの作品を見ていると、観ている者自身が画面の中の世界へ入ることが無く、あくまで対面で観ている感覚がどこまでも続いているような気分になった。そういうものだというのは分からないではないのだが、あくまで絵の世界の人々が絵の世界で生きていくしかないということを完全に割り切る必要がある。それは人間の姿をしている少女たちが、あくまで絵であるから存在できるという感じかもしれない。水槽の中の金魚は川に放しても金魚だが、アニメの少女たちはコスプレしても再現が不可能だ。たとえは適当でないかもしれないが、そのような決定的な違いが改めて分かるわけで、そのような愛情を持つ人でなければ、やはり彼女たちの生きている姿を見ることが出来ないということなのかもしれない。愛の無い僕のような人間に、その質感をつかめないのは当然というべきなのだろう。
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