カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

言えたら楽なんだろうな、と思うこと

2014-12-04 | ことば

 本来「ありがとう」という言葉は、いい言葉だと僕も思ってはいる。美しい響きを持っているし、意味としても普遍的に素晴らしいものだ。だからこの言葉を大切にして、マナーという以上に愛している人だっているだろうことは容易に想像できる。だから、それはそれでいいんだという前提があってのことだという断りが必要なんだが、しかし、これの必要以上の乱用に、戸惑いというか、嫌な感情を持ってしまうことの方が残念なのかもしれない。何を言いたいかというと、やたらにありがとうを言う人が、嫌いなんである。というか、少し距離を置いておきたい。少なからぬ人が、たぶんだけれど、そう感じておられるんじゃなかろうかと思うのだが、どうなんだろう。どうしてまた、こうもまあ、こんなにありがとうがあふれる世の中になったのかな、とも思うわけだ。会話の最初から最後までありがとうの連発で、ありがたがられることなんて何にもしてないのに、ありがとうをたくさん言われる。せっかくのいい言葉が、どんどん汚れていくような感覚を覚える。さらに明るい笑顔だったりするわけで、これもだんだんウンザリする。この場から早く立ち去りたいような衝動を何とか抑えながら、かろうじて体勢をキープしている感じかもしれない。僕なんかに向かって安易に感謝などしないで欲しいものだ。そりゃあ、感謝されてうれしいことも無いではないが、そういう場合と明確にありがとうを分けて使って欲しい。それがありがとうという言葉に対しての、最小の敬意ではあるまいか。
 それと似たような感覚を覚えるものに、「夢」という言葉もあるように思う。ちょっと前からだけど、あなたの夢を語ってくれとか、自分の夢を語るような人がやたらに増えているように思う。このあいだ亡くなった高倉健に生前インタビューした映像が流れていて、やはり夢は何だという問いが投げかけられていた。年配の人に夢を聞く行為に違和感があるし、かえって失礼だ。その後健さんは死んだから、まるで夢破れて死んでしまったみたいではないか。
 若いから夢を語りすぎるのも、やはりシラける。そんなに夢が大切なもんなんかな、という疑問さえわく。いや、夢は持っていてもいいし語ってもそりゃあ場合によっては楽しいこともあることは知ってるんだけど、そういうものをさらに美化して語らせたり共有したりすることに、なんとなくの戸惑いを覚える。英語のdreamと日本語の夢というのは厳密にいうと少し違う気もするし、しかし問う者にとっての夢とは純粋にdreamのつもりらしいのも気になる。いや、英語だってdreamには少しくらいの恥じらいの表現だってあるはずなんだが、いわゆる米国的というか、疑いのない響きがおかしいことくらい、自覚してほしいと思う。当然そういう前提があって語られるべきが「夢」であって、僕はそういう夢を持ちたいだけのことなんである。
 とはいえ、高島俊男などは、編集者などに「お世話になっております」といわれると「お世話なんぞした覚えはない!」と叱ったらしい。僕はそういう老人になりたいかといえば、必ずしもそうではない。そういう物言いは非常に好ましい爺さんだとは思うが、僕はそのようにふるまいたいわけではない。要するに言えないからなんとなくたまってきて、嫌な感じが消化できていない、ということなんだろう。だから、それなりに以上終わりである。ごめんなさい。
コメント
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