カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

日本でも一定の議論を待つ

2014-12-05 | 境界線

 少し前の話になるが、米国のブリタニーさんという女性が、脳腫瘍の為に尊厳死を選び、その是非をめぐり世論を分断する議論になった。日本でも報道で観た覚えがあり、飛び火して関心を抱いた人も多いことだろう。表現が尊厳死となっていたが、事実上医師の幇助を受ける安楽死である。もっと平たく言うと、自殺ということにもなるが、これはまた違った議論を呼ぶのであくまで安楽死問題としておこう。だからそのようなことが認められてもいない日本では議論しにくいということもあるのかもしれない。さらに日本の安楽死は、延命処置をしないものを指している場合があって面倒なんだが、それは普通は自然死ということになるらしい。言葉の前提を調節しないと同じ土俵で議論できない問題ということでもわかるが、やはり人の死を扱うことに人々はデリケートである表れでもあるだろう。
 ブリタニーさんの脳腫瘍というのは手術が不可能なタイプのものらしく、要するにそのままの自然死を待つ状態と捉えていいと思う。さらに薬で痛みを緩和するにも限界があるらしく、かなりの苦痛であるようだ。夫はもちろん子供もいて、そういう状況で安楽死を選択したからこそ、議論になったわけだ。その意味はよく分かるし、違和感を持つ人がいることも、同時に分からないではない。ブリタニーさんはそのような自分の決断をネットに告白したからこそ火がついたのだが、その是非についても議論があったことだろう。真意は知らないが、自分の死と向き合うにあたって、やはり疑義を持っていただろうこともうかがえる。その上での自分の選択であるという主張に、世間が反応したということになる。反応の大きさについては予期していたとは考えにくいが、しかし、一定の反応が彼女にどのような影響を与えたことだろうか。現在は、すでにブリタニーさんはこの世にいないものと思われる。
 僕自身も議論をしたいという気分があるから取り上げているわけだが、それよりも何よりも、やはり日本での議論が必要だという感覚がある。死というのは国や文化で捉え方がかなり異なる。その上で日本なりに法整備が進むことが望ましいと思う。安楽死というとびっくりしてしまう人も多いのかもしれないが、当事者としては、苦渋の選択としてやはり望んでいる人が当然いるはずなのである。その選択すら無いし、事実上無視をされるという苦痛まで背負ってしまう個人のことを考えると、議論くらいしたっていいんじゃないかという気持ちさえ抱いてしまう。
 しかしながら、安楽死の問題でもう一つ目を向けなければならないのは外でもなく、医療の側の立場もある。事実上の自殺の幇助に、たとえ仕事とはいえ、苦痛が伴わないはずがない。はいそうですか、では注射しますと、簡単に引き受ける医師がどれくらいいるものなのだろうか。また、実行した後にもしこりのようなものが、精神的に残る可能性があるのではないか。
 オランダのような国では安楽死は合法化されている。ヨーロッパで死にたくなった人は、オランダに駆け込んでいくという。なんと、その理由が病苦のみの限定でもないという。それを進んでいるとかどうとかいうつもりはないんだけれど、さらにそのために問題が起こっているだろうことも当然考えられるわけだが、それすらも知らずに日本にいて無頓着に議論もできない人生なんていうことが、さらに深い問題という気がしないではない。日本でこの問題が本当に取り上げられることがあるとしたら、いったい何人のブリタニーさんが必要なんだろうか。
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