昨夜は宴席があり出掛けたが、行く前につれあいからきつく注意を受ける。いうまでも無く今夜はオリンピックの話題が出るに違いない。場の空気を考えて発言しないなり考えなさい、というもの。いくら正しいと思うことを言っても、今夜の場合まったく理解されないのは分かりきっているのだから。
へいへい。おいらをいくつだと思ってるんですかね~。とは思ったが、同時にこんなことを書いても失笑を買っているくらいの子供だという事実が過去には多すぎる。もちろん注意しましたぜ、いつものことだが、僕だって思っていることの一割五分くらいしか普段は言わないんだよ。それでも衝突する訳だが、本当に利害がある場合は、自分の意見は一切言わない。特に意見を求められたらポジション・トークに徹するに決まってるじゃないですか。何のためにブログ書いてるんだということです。
FBなんかでも、この人は基本的な考え方に間違いがあるな、と思うことは多いんだけど、あえてスルーは日常的だ。別に間違ってたって人格がおかしい訳ではない。ま、その疑いがある人も居ないではないが、めんどくさい。
でもですね、議論というのは厄介で、考え方の違いで衝突すると、人格を疑う人というのは多いんですよね。それが日本的といえばそうで、日本人の発言の下手さが指摘されるのは、このような感情があるせいかもしれない。
多少大げさだが、間違った考え方を持っている人が一緒に暮らしている状態を平和というんじゃなかろうか。時には嫌なことだったり、明らかな事実誤認だったり、勘違いだったり、思想の偏りだったり。多くの人は、所詮自分とはまったく違った過去と考えを持っている。だけどもそういうローカルな場所でいくら間違った意見が交わされても、世の中の平和が保たれている。そういう関係の無いゆるさこそ、自由と平和の象徴だ。
いくら小さい集団であっても、いってはならない事を言ったと糾弾され、そうして迫害に至ったり、時には逮捕されたりという国家があれば(今もあるだろう)、それは明確に平和なんかでは無い。いろいろな問題が表面に出ても、そうしてそれは大変に困ったことではあっても、極端に一方が糾弾されてしまうことが何より異常なのである。皆が一様に素晴らしいと思うことなんて、いかに醜いことなのだろうか。
ということなんだけど、自分のささやかな平和も守らねば。日本、おめでとう!(やっぱりおいらは子供だよ、まったく!)