カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

みのもんたの事なんて問題じゃない

2013-09-18 | 時事

 今回は本当によく知らないことを書く。何故なら僕は主として民放を見ないからだ。そして、もっと正直に言うと、そのきっかけの人の一人がテーマだからかもしれない。
 それというのも「みのもんた」。
僕は彼の価値というものは分からないではない。しかし、これだけ胡散臭い人がそうなんだ、というか、どうして? という思いしか無いのが実感だ。これは繰り返し過去から語ってきたことだから、もうどうでもいい水準の事なんだけど、でも、今の世論はなんだ! ということなんだろうね、正直なところ。
 僕は子供の責任を親がどこまで負うべきかはよく分からない。親の責任のある子供もいるし、一般的に言って、そんなことどうだっていい問題はあるだろう。でもそれでは基準にならないので、本当に乱暴に僕の考えを言うとするならば、関係あるはずないじゃん!という一点に尽きる。関係あるなら親だって死刑にすべきじゃないか。
 でも「みのもんた」。
 彼にだって親としての責任ということにおいては、僕としては全くないと、ふつうに思う。どんな教育か知らないし、そこに問題があるとしたら、少しくらいは意見は変えるかもしれないけど。でも、息子は変なことはしたけど、実際はいい大人だし、むしろお気の毒な親だろう。ところが僕が見る限りの世論では、「みのもんた」の責任を問う、という感じが少なからずあるようだ。明確に現時点でそのような証明として、彼がテレビに出ないことにより償っているという意見もあるようだ。
  僕の違和感はそこに尽きる、という感じかもしれない。はっきり言って現時点で息子に対しての責任は明確ではない。というか、彼が息子に犯罪を犯すための準備をどのようにしたというのだろうか。

  僕は「みの」という人物が息子のために自粛しているとは到底思えない。確かにきっかけはそうであるかもしれないが、根本的にそういう問題ではないと思う。
 「みの」というのは自分自身のためにそうしているだけの問題に過ぎないと思う。もし彼がテレビに出ていてこの事件にコメントをしなくてはならないとしたら、いったいどういう発言をするだろうか? 直接的に絶対言うと思うが「親の顔を見てみたい」という感じのことを言うのではないか?
 答えとしてはそれがすべて。「みの」自身は子供の所為ではなく、自分の所為でテレビに出ることが出来ないのだ。
  その感覚はまっとうだし、だからこそ、人気キャスターなのだろう。それが作られたキャラクターだとしても、僕はまったく驚かない。でも、そのようなバランス感覚を持っているのであれば、テレビの寵児としての身の振り方は、ほとんど決まっているような気がしないではないという気がするのであった。
コメント
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