いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

自分を語らない

2016-01-25 03:31:29 | 似非哲学の部屋
僕自身もここで何度もやってしまっているので、
いま思うと本当に恥ずかしいことなのだが、
もういい歳だし卒業すべきだな、と思う。

自ら語る自分像は、単なる願望に過ぎない。
「誰も知らない本当の自分」などではなく、
「周囲にこのように見て貰いたい」というだけのもの。

そもそも、誰に言い訳しているのか、
「自分ってこうだったんだ、それで、いまはこうなんだ」
なんて実は誰も興味はない。
というより、聞かされてる方はたまらない。
どうせ肯定しか許されない話だからだ。

過去の自分もいまの自分も、自分は自分。
都合良く一部を切り取って、どんな意味づけをしようが、
所詮は後付けの自己満足。
言い換えればタダの言い訳。
だいたい、他人はそんなに自分に関心などない。
過剰な自意識は時に見苦しい。

自分語りが大好きな人に限って、
人の気持ちもわかるようなことを言いたがる。
が、大概において恐ろしいほど見えていない。
というより、自分の主観で人を決めつける傾向すらある。
何事も都合良く解釈してしまう癖がついているからだろう。
誰にも指摘して貰えなければ、節穴はますます狭窄する。

そもそも「人の気持ちがわかる」とクチにする人は、
その発言を聞いた周囲がどう思うかを読み違えているという点において、
既に信頼性に疑義がある。

「自分はそんなことはない、自分のこともよくわかっているし、人物評も確かだとよく言われる」
という人間もいるだろうが、
自分に接近することで何らかの利益を得ようとしている取り巻きに
調子よく担がれているだけだということを自覚した方がいい。

何らかの下心でチヤホヤしてくる人間に囲まれるという境遇は
不幸の始まりかも知れない。
本当の意味で自らを客観視して、改める機会を失うからだ。
その心地よさが癖になると、
そのうち、無意識に自分を批判する人間を遠ざけ、
批判には批判でとことん応えようとする人間になる。
こうなってしまうともう進歩も成長も期待できない。

自分に都合の悪い何かを脱ぎ捨て、
その都度、新しい自分になれたような気でいながら、
結局同じことをくり返してしまうのは、
そんな自分を無意識に美化してしまうところに陥穽がある。
人に対してやたらと噛みつく前に、
自分は一体相手にどう見えているのだろうかと、
常に考え直してみるべきだ。

知識と経験は感性の牢獄。
便利な公式は本当の思考を奪う。
絶対の正解なんて何もわからないという態度でいれば、
その都度一生懸命考えるだろうし、
人の声にも誠実に耳を傾けようとするだろう。
それこそが謙虚さというものだ。
無知の知は皮肉でも謙遜でもなく、
謙虚が生む無限の可能性を説いている。
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