いぶろぐ

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知識のサプリ化がもたらすもの

2017-02-27 03:46:57 | この国の憂鬱
「逆教育勅語」なるものが出回っているのを目にした。
「日本の堕落」を招いた戦後民主主義を否定し、
戦前の日本を美化したくてたまらないヒマ人が、
教育勅語をその象徴として
いかに「真っ当」かを訴えるべくこしらえたらしい。

といっても、記事が書かれたのは5年前。
わざわざ採り上げる僕もよっぽどヒマだと思うけれど、
5年経ってもなおこうして
SNSなんかで拡散され続けていることにゾッとする。
思想的に相容れないという以上に、
そのあからさまに悪意をもった扇情的な内容に悪寒がするのだ。
またロクに原典を精読もせずに、
その通りだよく言ったなどと担ぎ上げる連中の
無神経な言動にもイライラする。

「古き良き日本」を愛するのは勝手だが、
邪馬台国から数えても1800年(彼らに言わせれば2700年か・笑)
ある日本の歴史の中で、
わずか80年ちょっとの時代だけもてはやされた価値観を
「日本の伝統」として都合よく美化するのには、
そもそも根本的に抵抗がある。

「逆教育勅語」を抜粋してみる。(全文は コチラ )

一、親に孝養をつくしてはいけません。家庭内暴力をどんどんしましょう。
三、夫婦は仲良くしてはいけません。じゃんじゃん浮気しましょう。
五、自分の言動を慎しんではいけません。嘘でも何でも言った者勝ちです。
七、職業を身につけてはいけません。いざとなれば生活保護があります。
十二、勇気をもって国のため真心を尽くしてはいけません。国家は打倒するものです。

いわゆる「十二の徳目」の「逆」として、
一律に「〜してはいけません」をつけて片付ける
安直ぶりはまだいいとして、
明らかに後半部分は意図的に勝手な内容を付け加えている。
これだけ読めば、そりゃあ誰だって認められない内容になるし、
「教育勅語は間違ってない」なんていうことにもなる。

作者曰く、
「教育勅語を危険思想と決めつける世の論者が気に入らない」
ということらしいが、
なぜこれが危険な要素を含むとされるのか、
がまるで呑み込めていない。
「親孝行しろ」「助け合え」という
聞こえのいい文言に隠された教育勅語の一番の眼目は、
「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」を
子供の頃からアタマに植え付けることではないのか。
そこまでの「真っ当な内容」とされる十一の徳目は、
この最後のひとつを正当化するために並べられている。
その文脈が危険なのだ。

時の政権が「国民の平和と安全のため」に
着々と戦前回帰を進めているかのような昨今の情勢にあって、
教育勅語のすり替え文脈はまったく相似形を描く。
到底「国憲ヲ重ンジ」ているとは思えない連中が
これを支持するのはいかにも皮肉だ。
まったく原典を精読しているとも思えず、
ただ都合のいいように文言を切り取って
利用しようとする態度こそ不遜きわまりない。

これを無批判にもてはやす人々が結構な数居ることにも驚く。
そもそも思想的に戦前のものは何でもワンダホーな人は仕方ないとして、
そういうわけでもない人々がきちんと調べもせずに
「なんだ、悪くないじゃん」となってしまっていることに
ちょっと寒気がする。

僕はこの背景に「知識のサプリメント化」の弊害を感じる。
面倒くさい原典やソースや諸説の確認作業なしに、
いかにもわかりやすくキレイにまとめられたパッケージに飛びつく人たち。
それでわかった気になってしまう人たち。
罪の意識なく、
あくまでも善意でその思い込みを広範囲にシェアしてしまう人たち。
それでいて自分を疑いもしない人たち。
最後には「騙された」と言って人のせいにして片付ける人たち。

あたかもお手軽に「栄養分」をイイトコドリされたサプリメントを、
素材の吟味もせず、料理の手間も咀嚼もなくグイッと鵜呑みにして、
それだけで健康体を自認する人のようだ。
水素水みたくタダの水ならまだイイが、
手放しに礼讃するそれが毒でないという保証はどこにあるのだろう。

教育勅語の話に戻るが、
そもそも真っ当とされる11の徳目だって、
僕に言わせれば余計なお世話だ。
親孝行なんて国家に命令されるようなものじゃない。
だいたい、家庭環境や親子関係だって千差万別なのだ。
親子だからという理由だけで孝養を義務づけられるなど、
育児放棄や児童虐待された子供にとっては迷惑この上ない。

自分の言動を慎むべきかどうかなんて、時と場合によるだろう。
自分や家族を守るためには、
権利を主張しなければならないし、行動しなければならない。
いつ何時でも組織のために自制するなんて、
権力者に都合がいいだけの奴隷の美徳じゃないか。
まして言動を自ら慎むというより、
無理に慎ませるようなこの感覚がかつては軍部の暴走を生み、
最近ではブラック企業や過労死の問題につながっているんじゃないのか。

つまり、多様性を一切認めないこの狭量な美徳の押しつけが、
時代錯誤以外の何ものでもないのだ。
多様性を認めないということは、
そのまま特定の誰かに都合のいい状況を意味する。
欧米列強と渡り合うために国家統制を急いでいた時代背景では
それなりの妥当性をもって迎えられたことでも、
それを現代にそのまま持ってきて通用するはずがない。
バカも休み休み言えと一笑に付すべきレベルのものだ。
にもかかわらず、下村博文あたりが文科相・教育再生大臣の肩書きで
「内容には問題ない」なんてコメントしてしまう。
なんて浅はかで危うい感覚だろうと思う。

国家のために国民が奉仕しろ、なんてのは僕に言わせれば愚の骨頂。
逆だろ逆。
国民のための国家であればこそ、
みんな自然と国を守ろうと思うんじゃないの。
それを「子供のうちから国を守る意識を教育して…」なんて
本末転倒もいいところ。
ロックやルソーに笑われるぞ。

こういうことを言うと、左翼だと決めつけられるのも本当に鬱陶しい。
僕自身は右でも左でもない。国粋主義も社会主義も嫌いだ。
反日呼ばわり結構、僕はただ国という名前の権力者の都合なんかより、
個々人の自由を愛してやまないだけだ。
まず自分自身を大切にできない人間に、
他人を思いやることなんてできるわけないだろう。

本当にシャレで済まないくらい焦臭い世相になってきた。
濁流のように僕らを呑み込み押し流そうとする同調圧力から身を守るには、
サプリに頼らない確かな知識とリテラシーしかない。
それこそが慎重さと理性をもたらしてくれる。
それらを幅広く身につける姿勢と根気を養う努力を、
教育に携わる者の端くれとして、訴えていきたい。
子供たちには何よりまず自分を本当の意味で大切にしろと伝えていたい。

教育勅語が発布されたのは1890年。
その下で教育を受けた世代が日本を破滅に導いたのは、わずか55年後。
ロクなことにならないのは先例が証明している。
こんな結果を招いたのも、特定の人物や集団ではなく、
偏った教育や限られた知識や情報、偏狭な価値観のもとで
暴走を熱狂的にそして無責任に支持した
大多数の国民であったことも忘れてはいけない。
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