いぶろぐ

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体罰禁止を考える

2019-02-20 23:34:27 | 超・いぶたろう日記
数々の痛ましい事件もあったし、
家庭内での児童虐待について防止策を考えていかなくてはならないのはもちろんなんだけど。
「家庭内の体罰禁止を法制化」ってのは……どうなんだろう。

どうしても心がざわついてしまう。
家庭内のことに法律や国家権力を持ち込むのには慎重であった方がいいと思うし、
そもそも本質的な意味での解決策になってない気がする。
法制化したってお構いなしに子供を傷つける親もいるだろうし、
理屈の通じない子供や、逆手にとってやりたい放題始める子供もいるだろう。
親子の揉め事が起こるたんびに体罰があったのなかったのと裁判になるんだろうか。

「児童虐待」は間違いなく犯罪の域。
法律なり行政なりの介入を整備していくのは必要でしょう。
でも「体罰」は「子供を愛するが故の厳しいしつけ」という面もあることは否定できない。
すべての体罰がそうだというのではないが、そういう愛のある体罰というのは、
「子供を好き好んで殴りたい親など居ない」という前提においては、
親にとっても苦しい罰になる最後の選択肢であるはずだ。
ただ、体罰か虐待かの線引きは難しいし、そこに愛情があるかどうかなんて法律では測れない。
どう規定するんだろうか。
難しいから考えるのはやめて全部禁止とするわけか。
それは退化ではないだろうか。

体罰は基本的には暴力である、それには違いない。正当化することはできない。
体罰などないしつけや指導が望ましいのは言うまでもない。

でも、本当にいろんな子供がいる。「子供は天使」なんてウソだ。
いくらでもズルくなれるし、底抜けにだらしなくもなれる、平気で裏切るし、
人や世の中を舐めているのだっている。その点では大人と変わりない。
体罰で辛うじて秩序を保っているような現場もあるかもしれない。

大人に都合のいい理屈かもしれないが、場合によっては効果やタイミングを計りながら、
何より怪我をさせないように細心の注意を払って、
痛い思いをさせてでも止める、気づかせることが必要なケースもあるんではないか。
激情のままに一方的な暴力をぶつけるというのではなく。
相手を思いやった上での、論理が通用しない相手を矯正する手段としての体罰。

問題は、主観はそうであっても、客観的には証明が難しいということだ。
誰もが自分のやっていることは愛のあるしつけだと思う。
でもやられている側、あるいは周りで見ている側は、同じ暴力にしか見えない。
だからといって、区別もなく一様に暴力として、違法行為として排除されるべきなんだろうか。

キレイゴトを言うのは簡単だが、実に難しいことだと思う。
なんでもかんでも法律で禁止すりゃ解決するってわけでもない。
政治家のやってますアピールにはいいかもしれないが、方法としてはちと安易ではなかろうか。
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