【みかん娘】

【みかん娘】

梶原山に連なる小高い山々も、南東斜面はみかん山である。三百メートル程度の小さな山でも、みかんの畑を登って山頂に立つとその眺望に驚く。考えて見れば、東京タワーや超高層ビル展望室ほどの高さがあるみかん山なのである。

子どもの頃から、みかん山に登るのが好きだった。温暖な清水なので、冬でも一気に頂上を目指すとセーターを脱いだとしても汗ばむほどだった。斜面に腰かけて、形の良いみかんをもいで皮を剥き、口に放り込む時の清涼感はなんとも言いがたい。もちろん他人の山の作物を勝手に食べるのは窃盗行為なのだけれど、ときおり竹の籠を背負ってひょいと現れるみかん山のおじさんは、みかんを頬張る子どもを見て、
「ここで食うだけにしておけよ」
と笑って言うのだった。

清水市の男たちは概して子どもに優しい。清水弁で男の子のことは「小僧」という。「小僧」は標準弁ではないかと思われるかもしれないけれど、

こ‐ぞう【小僧】
(3)年少の男子をあなどっていう語。
(広辞苑第五版より)

のような意味で用いられるわけではない。例えばこんな風に用いる。
「おらっち小僧もはしっけぇほうだけぇが、おまっち小僧はまっとはしっけぇなぁ(うちの子どもも賢い方ですが、お宅のお子さんはさらに利発ですね)」※「はしかい」はすばしっこいが転じて頭の回転が速いこともいう
男の子は誰でも「小僧」なのだ。だから清水の男たちは自分の子どもでも他人の子どもでも区別せず小僧と呼ぶ。

山から手ぶらで降りるとふらつくといけないからと笑いながら、みかん山のおじさんにみかんがぎっしりつまった籠を背負わされたことがあるけれど、身体の大きい自分でも唸るほどだった。みかん山の農作業は重労働なのだ。

小学校が長期休暇に入り、母親に連れられて郷里の実家へ預けられるとき、東京駅ホームに緑とオレンジ色ツートンカラーの電車が入ってくると心が踊った。大好きなみかん山の色だったからで、この「湘南電車」が登場したのは 1950(昭和 25 )年のことである。みかんと茶をイメージしたという説もあるけれど、灰色の都会をあとに、湘南海岸を駆け抜け、一路みかん山を目指す夢溢れる「みかん電車」に見えた。

郷里に預けられた甥っ子を母親以上の愛情で見守ってくれた実家の嫁、大好きな叔母は山形県出身だった。子どもの頃から「この叔母さんはどうして遠い山形から、清水に嫁に来たのだろう」というのが長いこと疑問だった。四十歳を過ぎて、母親と思い出話をしながらのんびりと飲めるようになった頃、ふと思い出してこの話を持ち出してみた。

戦後、日本は男性の数が不足し、みかん農家でも収穫作業の人手不足に困った。そこで暮れの収穫作業のために特別列車を仕立て、東北地方から娘さんたちを短期の出稼ぎ要員として集めた。この少女たちを当時「みかん娘」と呼んだ。

梶原山に連なる柏尾という土地に住む親戚の者が、気立てがよく働き者の娘がいるが、嫁にどうかと跡取りの叔父に紹介した。それが叔母であり、彼女もまた「みかん娘」だったのである。

※写真はたぶん興津

(閉鎖した電脳六義園通信所 2002 年 1 月 22 日、20 年前の今日の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【閉所恐怖】

【閉所恐怖】

今西錦司との対談 ※ で日野啓三がこんなことを言っていた。

日野 私もひどい閉所恐怖症で、高いところは全然平気なのですが、ケーヴィングというあの洞穴にもぐるのが好きな人たちは一体どんな神経をしているのだろうと思う(笑)。もしかすると実は、たとえば子宮回帰願望のような閉所への執着があり過ぎるために逆にブレーキが働くのかな、と思ったりもしますが、よくわかりませんね。

自分もひどい閉所恐怖なのだけれど、閉所的状況に置かれて、眠ったら死んでしまうから眠るなとか、狂ってしまうから悪い方へ考えるな、などと言われたらいっそ進んで眠ったり狂ったりして現実的状況から逃れてしまおうと思う傾向が強いかもしれない。チリ鉱山落盤事故 ※ のような状況に置かれたらとても耐えられそうにない。

そういう自分の傾向を恐れる気持ちが転じて生きることへの執着が強くなり自ら進んでおののくわけで、生以前への回帰は逃避の願望であって物理的閉所のさらなる閉所なのかもしれない。

※『創造する心』日野啓三対談集より

※チリ鉱山落盤事故
2010/08/05
33 名が地下 700 メートルに取り残される
18 日目に生存確認
69 日後に全員救出

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【自得】

【自得】

芭蕉の「静かにみれば物みな自得す」という言葉がありますね。静かにということは、心を無にして、離れて、ということではないかと解釈しているのですが、そのときに、万物と自分の心との通い合いが起こる、その喜びをいっているのではないかとも思うのです。(東山魁夷)

芭蕉の「自得す」は「おのずからしかるべくある」ということで、ギリシャ語の physis(ピュシス)のような自然、人間の主観を離れた「こと」をいうのだろう。

私は、画家でもあり、深く人間の醜さを見ようという気はないんです。月を描くなら光っている面だけで十分ですので、むしろそういうところで、素朴な人間性に出遭い、自然のきびしい清澄さに打たれるのですね。(東山魁夷)

芭蕉をひいたあとで画家がこう言っている。こう言っているのを読んで、なるほど、と、この人が書いた絵が別の見え方をしてくる。こういうこと、がおもしろい。

※『創造する心』日野啓三対談集より

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【ロザンナのために】

【ロザンナのために

『ロザンナのために』という映画があった。

『レオン』という映画を見たことがあり、その主役を演じたジャン・レノが主演しているのだけれど、残念ながら『ロザンナのために』は見ていない。1997年の映画で、その頃の映画評を読むと当時ブームだった「不倫もの」の対極にある「夫婦の純愛物語」なのだそうだ。

主人公マルチェロの愛妻ロザンナは、病いで余命いくばくもない。彼女の最後の願い、それは幼くして亡くなった娘の墓のとなりで永眠すること。だが、墓地にはもう三つしか空きがない。妻の願いを叶えるため、マルチェロは村人を一人たりとも死なせまいと、交通整理や重病人への献血など涙ぐましく奮闘するというストーリーらしい。

そもそも、焼かれたあとの骨にも人格があると認められるようになったのは浄土宗以降で、墓が重要視されるようになったきっかけにもなっていると聞く。日本の仏教が葬式仏教に堕する一因となったのは私有の墓制度なのだろう。

骨は骨にしか見えないので、自分の骨などはその辺に捨ててもらって一向に構わないのだけれど、残された家族は世間体というものもあるので、そうもいかないだろう。妻が先に死ぬような事でもあれば、それなりの墓をたてて妻の菩提を弔うに違いない。

若い頃は、まぁ仕方ない、死んだ先のことまで我を通すのも馬鹿らしいけれど、そう差し迫ってもいないから、とりあえず保留しておきたい気持ちが強かった。その一方で、加齢とともに、本家筋に生まれないひとりっ子同士の結婚で、しかも子どもが無いとなると野垂れ死にを選んだところで、遺体が発見されてしまえば焼かれて納骨されなければならないわけで、せめて一時の納骨場所でもあらかじめ自分で確保しておかないと、始末する人に迷惑がかかるかなぁなどとも思い始めていた。いずれわが家の墓に参る人も絶えたら、墓は廃棄して中の遺骨は無縁仏にしてもらって、後の世代の永眠場所に明け渡して利用して貰えばいい、一時的世間付き合いのための墓くらいは確保して置こうという気もしてきていたのだ。

そんな折り、祖母の看取りを終えて次は自分の番と覚悟したのか、母が急に墓のことを気にし出した。自分の墓は息子が建てるに決まっている、まさか遺骨を道端に捨てるような真似はすまいと思ってはいたのだろうけれど、そんな心配ではなく何としても先祖代々の墓があり両親の遺骨のある寺で永眠したいと思い始めたらしいのだ。

静岡県清水。通称梶原山の麓に富谷山保蟹寺(ほうかいじ)という小さな寺がある。創建は慶長年間という。その寺にある石原家本家の墓の脇にいくつか墓の空きがあり、両親の側で眠る権利を得る最後のチャンスかもしれないと母親が言い出したのである。まぁ、親不孝息子としてはその場所で眠る、ましてや納骨室に「入る」などというイメージを持たない人間なので、正直に言えば親の墓の場所など、どこでもいいやと考えていたのだけれど、祖父母や叔父の墓がある寺だし、幼い頃から眺めて過ごした梶原山の麓でもあるので、悪い話しではないなと思い、「墓の権利を買う」などという一生に一度の珍体験を、渡りに舟と済ませてしまった。『ロザンナのために』ではなく『母親のために』。

草が生えて、ゴミ捨て場になるのも困るので、いざ鎌倉、ではなく、いざ成仏の際すばやく入室できるように基礎工事だけは済ませてある。墓石を建てて建立者の名前を刻み朱で埋めて置くなどという「寿陵」とか「寿蔵」とかいう習わしもあるようなのだけれど、わが石原家の墓には小さな仮の墓石があるだけである。
いつの日か、母親、自分、妻の順番で入室予定なのだけれど、墓などを前もって用意してしまうと奇妙な可笑しさがあるものだ。

墓参り自体を嫌いではない。清水帰省するたびに、妻と母親と愛犬イビを伴ってご先祖の墓にお参りし、献花して線香をあげ合掌するのだけれど、いまのところ空き家であるわが家の墓も見て行こうという話に必ずなる。

入居予定の三名が墓の前で無言でいるというのは、何とも気まずいものだ。
「最初に入るのはイビかなぁ」
と、犬に向かって言い、
「でも犬は人間のお墓には入れないもんね~」
と、続けるオチになるよう、家族の会話はいつのまにか決まっている。

※写真は保蟹寺の竹林と、母に連れられたイビ。

(閉鎖した電脳六義園通信所 2002 年 1 月 21 日、20 年前の今日の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【漱石の波長】

【漱石の波長】

今西錦司との対談を読んでいたら日野啓三が

「漱石の文章と波長が合わなかった、というのはわかるような気がします。私もどうも漱石が苦手なんです。」※『創造する心』日野啓三対談集より

と言っていた。漱石の書いたものが好きなので、たいていの人が好きであって当たり前と思っていたけれど、評価しない人もいることが意外で気になるようになった。

たしか菊池寛がそう書いていたし、売れっ子の精神科医も得意じゃないと書いていた。そして今西錦司は、読んだけれど影響を受けるほどではなかったと言い、日野啓三は波長が合わないのだろうと共感している。

漱石の書いたものが嫌いだとは言わず、評価しないとか得意じゃないとか婉曲な批評であるのが面白い。自分がなぜ漱石が好きかというと、彼の文章を読んでいると心が落ち着くからで、極端に言えば内容はどうでもいい。ただ波長が合うのだろう。


DATA : LUMIX DMC-TZ55

近所の友人に漱石の話をしたら
「わが家は漱石は読まないんです」
と言う。わたしは…ならわかるけれど、わが家は…である意味がわからない。漱石が家族の波長に合わないのだろう。

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【三四郎池】

【三四郎池】

自分の恥ずかしい勘違いを数え上げたら枚挙に暇が無くて、街を歩けばあちらこちらで恥ずかしい勘違いの記憶が呼び覚まされる。
 
東京大学構内に大きな池があって育徳園心字池、通称東大三四郎池という。


東大三四郎池

元和元年(1615)の大阪夏の陣の後、加賀藩前田家が幕府から現在の東京大学の敷地を賜った。
寛永3年(1626)前田家3代利常の時に、徳川3代将軍家光訪問の内命を受け、殿舎、庭園の造園にかかり完成までに3年を要した。
外様大名として誠意を示す必要があったためである。
このとき完成した庭園が育徳園と呼ばれ、池を心字池といった。
夏目漱石の名作『三四郎』は、ここを舞台としたため、誰言うとなく「三四郎池」と呼ばれるようになった。(文京区のサイトより)

東大構内に入って三四郎池を実際に見た後も、僕は長いことその池が映画やドラマで見た『姿三四郎』に登場するあの池だと思い込んでいた。
 
テレビで見た『姿三四郎』で最も印象深いのは竹脇無我が三四郎を演じたテレビドラマで公開は昭和45年である。
 
村田英雄が歌う主題歌が好きで「姿三四郎+竹脇無我+村田英雄」で記憶がワンセットになっている。けれど村田英雄が主題歌を歌った『姿三四郎』は倉岡伸太郎が主演したテレビドラマで昭和38年公開であり、ここでもまた勘違いをしている。


池の中の姿三四郎が見上げていたと勘違いしていた三四郎池上空

富田常雄原作の『姿三四郎』で、三四郎は柔道が上手くなるにつれて思い上がりによる私闘を繰り返し、柔道の氏である矢野正五郎に死ねといわれて蓮池に飛び込む。飛び込んだものの死ねなくて杭につかまっているシーンが印象的で、そのシーンを思い出すたびに東大三四郎池の中で震えながら杭につかまっている竹脇無我の姿が脳裏に浮かび、そこに村田英雄が歌う

♪人に勝つより 自分に勝てと 言われた言葉が胸にしむ
♪つらい修行と弱音を吐くな 月が笑うぞ三四郎
(作詞 関沢新一・作曲 安藤実規. 唄 村田英雄『姿三四郎』より)

という歌が重なるのだけれど、完全に間違った勘違いの思い出である。


姿三四郎ではなくカモとコイのいる三四郎池

そういういい加減な思い出を数え上げたら枚挙に暇が無い。
 
そしてそれをこうして日記に書き恥じながら訂正しつつ、「実は私も……」という人が現れると「(そうでしょう?)」と妙に嬉しかったりするのが、われながらせこいと思う。月が笑うぞ三四郎。

(閉鎖した電脳六義園通信所 2008 年 1 月 20 日、14 年前の今日の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【無縁坂のぼりくだり】

【無縁坂のぼりくだり】

無縁坂というと森鴎外の『雁』より、グレープの歌を思い出してしまう。
 
大学時代にそのレコード盤を買い、なんとなく喜びそうな気がして上京した母親に聴かせたことがある。けれど、母とふたり実際にこの坂をのぼったことはない。

この坂をゆっくりのぼるたびについつい『無縁坂』が口をついて出てしまうのだけれど、歌詞にあるように溜息をつく母とふたり、かみしめるようにのぼった記憶もないので、さほどしんみりせずに済んでいる。

不忍池のほとりから無縁坂を登りきると鍵型の曲がり角に突き当たって道は左折する。左折せずその右手の小さな鉄の通用門をくぐると東大病院への近道になる。東大医学部俗称の「鉄門」である。

 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条と云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。

Ogai Mori. Gan (Japanese Edition) (p.2). Kindle 版. 

上野駅から不忍池の畔をまわり、無縁坂を登り切った場所にある小さな門をくぐって病室を訪ねた人も多いかもしれない。そういう思い出を持つ人にとって無縁坂は森鴎外の小説ともグレープの歌とも関係なく、今でもかみしめるようなのぼりくだりになっているのかもしれない。

(閉鎖した電脳六義園通信所 2008 年 1 月 19 日、14 年前の今日の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【ニルスのように】

【ニルスのように】

子どもの頃読んだ本に『ニルスのふしぎな旅』という童話があった。ニルスという少年が妖精によって小さくさせられ、ガチョウの背に乗ってスウェーデン中を旅するお話だった。
 
「さぁ、あの鳥さんに乗ったところを想像してみましょうね~」
と幼児向け番組のお姉さんに言われたら、オヤジになった今でも
「は~~~~~い」
と笑顔で鳥さんに乗った自分を想像できる。幼い頃そういう童話の世界に浸ったことがあるからだ。そういう想像力を学ぶ機会を幼時に持つことができたことをありがたく思う。そのおかげで老い先短いオジサンになっても人生が楽しいのだ。永遠の童心は精神を救済する。
 
「さぁ、あの鳥さんに乗ったところを想像してみましょうね~」
とお姉さんに言われて、確かにガチョウは乗りやすそうに思うけれど、その辺にいるカラスやハトであっても軽飛行機だと思えばそう乗り心地が悪そうな気はしない。

根津の出版社で打ち合わせをした帰り、不忍池にまわってみたら東京都の鳥であるユリカモメが水辺で群れていた。
 
「乗せてください」
と言ったら乗せてくれそうにざっくばらんな鳥なので、ニルスになったつもりで乗せて貰ったところを想像してみた。

この鳥は大きな旅客機や小さなセスナなどと違って、非常に小回りのきく戦闘機のように敏捷な飛び方をし、性格的に落ち着きがなく食い意地が張っていることもあって、激しく旋回やホバリングや急降下を繰り返すので乗りこなすのが大変そうだ。
 
「(こりゃ大変だ…)」
とオヤジのニルスは思うけれど、ユリカモメを上手に乗りこなせるようになり、暖かい春になったら都会の上空を旋回して日本に別れを告げ、海を渡ってユーラシア大陸に向かう旅を想像してみるとうっとりとする。

公園でぼんやり鳥を見ているオヤジは、苦虫をかみつぶしたような顔をしながら、実は頭の中で『ニルスのふしぎな旅』のページをめくっているのかもしれない。

(閉鎖した電脳六義園通信所 2008 年 1 月 18 日、14 年前の今日の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【秋葉原に一番近い街】

【秋葉原に一番近い街】

郷里静岡県清水の折戸車庫発東京駅八重洲南口行き高速バス「しみずライナー」の運行が始まり、折戸に住む友人の叔父さんは
「どうだ折戸は東京にいちばん近い街なのだ」
と自慢していたという。

その叔父さんの息子である従兄が正月に不思議なおでん缶詰を友人にくれ、その販売者は秋葉原の電気店ラオックスであり、なんと製造者が清水の KGS 駒越食品とあるので驚いたという。清水駒越産のおでん缶が秋葉原土産として売られているなら、ある意味で駒越は秋葉原に一番近い街なのではないかという。

秋葉原のラオックス近くにあるチチブ電機脇にある自販機では何年も前から暖かいおでん缶が売られており、若者達が路上にヤンキー座りして食べる姿をよく見かけたが、
「(そうか、あのおでん缶は清水産だったのか)」
と思って感動し、バスに乗って見に行ったらチチブ電機脇のおでん缶は天狗缶詰という会社が製造している別物だった。

友人のメールに添付されていた写真にアソビットシティのロゴがあったのを思いだし、中央通りを渡ってホビー系オタクの聖地に初めて入ってみたら友人のメールにあったおでん缶は秋葉土産として売られていた。

缶には土鍋に入ったおでんを持ったメイドキャラが印刷されており、側面には運ぼうとして転んで涙を見せるドジでかわいいお決まりのパターンが描かれている。

記念に買って帰ってよく見たら製造者が変わっており、調べてみたら四代目にあたるこのおでん缶からは製造者が青森県の株式会社宝幸に変わったのだという。

ということは友人が貰ってきたおでん缶詰は古いもので、駒越が秋葉原に一番近い街だった頃の貴重なタイムカプセルなのだった。

(閉鎖した電脳六義園通信所 2008 年 1 月 17 日、14 年前の今日の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【上野は笑う】

【上野は笑う】

上野鈴本演芸場の幟には創業百五十年と書かれている。

新春壽寄席の主任(とり)は四代目三遊亭金馬。
NHKのテレビドラマ『お笑い三人組』で満腹ホールの金ちゃんを演じた三遊亭小金馬であり、一龍齋貞鳳の正ちゃん、3代目江戸家猫八の八ちゃん亡き後、今も元気に高座を勤められていて嬉しい。

「あはは」という笑いにはちゃんと底がついているけれど、「がはは」という笑いは底が抜けている気がし、そういう意味で僕は落語家の中で先代である三代目三遊亭金馬の「がはは」な笑いが今でも一番好きだ。

三代目三遊亭金馬は1964年に亡くなられているけれど、先代林家三平の奥さんである海老名香葉子さんが戦災孤児になったとき、「ウチの子になるかい」と優しいおじさんが声をかけてくれたという有名な話しがあり、その人こそ三代目三遊亭金馬だった。カセットテープでしか三代目三遊亭金馬の落語を聞いたことがないけれど、昭和の爆笑王の名にふさわしく明快で底抜けの「がはは」という笑いがそこにはあり、僕は三代目金馬演ずる「小言念仏」が大好きで絶品だと思う。

【小言念仏】念仏と、その合間に怒鳴ったりする小言だけで、周囲の情景が完璧に浮かんでくるよう演じなければならない難しい噺。 扇子で床を一定のリズムで叩き、木魚を叩いているつもりになって演ずる。(Wikipediaより)

神社の狛犬というのは口を開けた阿形像(あぎょうぞう)と吽形像(うんぎょうぞう)がひと組で阿吽(あうん)になっている。

上野鈴本演芸場玄関脇の狛犬は口を開けのけぞって「あはは」と笑っており、「あはは」の形相と主任(とり)を勤める四代目金馬の名前を見たら、懐かしい昭和の爆笑王三代目金馬を思い出した。

そういえば右の狛犬の「あはは」に対して左の狛犬は「がはは」と笑っているようにも見えるけれど、四代目金馬は「小言念仏」を演じられるのだろうか。『お笑い三人組』で日本中をわかせた満腹ホールの金ちゃんならきっと先代譲りの「がはは」で笑わせてくれるのではないかと思う。

(閉鎖した電脳六義園通信所 2008 年 1 月 16 日、14 年前の今日の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【磁石の不思議と昭和のいる・こいる】

【磁石の不思議と昭和のいる・こいる】

なぜか、物は原子でできている

原子の中心には原子核がある

原子核のまわりには電子が回っている

電子が動くと電流が生まれる

電流が生まれると磁界が生まれる

磁界が生まれるとN(正)とS(負)の磁極が生まれる

磁極が生まれると、そこに磁石が生まれる

ボケ担当である「こいる」に電流が流れるとツッコミ担当の「のいる」に磁力が生まれ、電磁石となって昭和のいる・こいるという漫才師になる。

漫才師に限らず人間関係は電磁石になっている、なぜかそうなっている。


DATA : SONY NEX-6 Olympus G.Zuiko 1:1.4 f=40mm

昭和こいるさんは 2021 年 12 月 30 日に他界された。

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【土俵のうちそと】

【土俵のうちそと】

裸になって入浴するのは気持ちがいい。
気持ちがいいけれど、反面ひどく疲れるものでもある。訪問入浴サービスの若者に身体を洗い髭をそってもらってさっぱりした義父が、夕食時にぐったりしている。シャンプーしてもらった頭髪がホヤホヤで顔が温泉マークのようだ。

就寝までもうひと頑張り、活を入れなければと思ったので大相撲初場所の話しをしてみた。
「横綱貴乃花がまた休場だってね!」
義父は目を輝かせて、
「まーたダラなことしとっちゃ」
と、得意の富山弁が出る。その調子その調子。
怪我をするのもさせるのも相撲取りとして弱い証拠であり、そういう力士としてのチカラが弱ったらそれなりの身の処し方があるはずだ、という意見で意気投合した。

だめ押しに、
「ボクも休めるものなら、明日、得意先の出版社に休場届を出したい」
と言うと義父も大笑いで、
「わしだって休みたいちゃ!」
と、笑う。

そうなのだ。
全治一週間の診断書を書かせて土壇場で休場届けが出せるものなら、義父はパーキンソン病との闘いを少しだけ休みたいに違いないし、義母だって急性白血病の治療から逃れたいに違いないのだ。土俵のそとで休めるものなら休みたいけれど、それが許されないから人生の土俵上で頑張っている者が大勢いるのである。人生は待ったがきかない。

食事を終え、ベッドに横になった義父に、
「明日は大学病院で検査だから 6 時起きだよ。寝坊したら相撲協会に休場届を出すからね」
と言うと、義父は入れ歯を外した口でハフハフと笑う。
すっかり興醒めした初場所のおかげでわが家の夜は笑いで満たされる。

(閉鎖した電脳六義園通信所 2003 年 1 月 15 日、19 年前の今日の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【奇数羽状複葉】

【奇数羽状複葉】

白山上までの買い物ついでに散歩したら、住宅街の道におもしろい葉っぱが落ちていた。

輪郭はギザギザのある鋸歯縁(きょしえん)で、葉のつき方は先端が一枚の奇数羽状(うじょう)複葉(ふくよう)になっている。言葉で書けばそういうことなのだけれど、道にかがんで写した写真と、植物図鑑の分類に従って開いた奇数羽状複葉(きすううじょうふくよう)ページの写真とが、みんな少しずつ違っていて、結局この葉っぱの樹種名がわからない。


DATA : SONY NEX-6 Olympus G.Zuiko 1:1.4 f=40mm

北からの強風で吹き飛ばされてきたようで、辺りを見回しても元の木は見当たらなかった。

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【風の通り道】

【風の通り道】

「寒気の吹き出しに伴う筋状の雲が日本列島上空にかかり……」と気象予報士が紋切り型で言う気圧配置になると、日本海側では雪が降り、雪国で暮らす友人たちはさぞや寒かろうと思う。

富山にあった妻の実家に年末帰省し、そのまま太平洋側にまわって清水のわが実家で新年を迎え、三が日を終えて帰京するという恒例行事を数年間続けたことがある。

寒い富山をあとにして太平洋側の清水に着いたら呆れるほど暖かかった冬もあった。けれど、西高東低の典型的な冬型で日本海側に雪が降っているときは、清水も山を越えて吹き下ろす乾いた寒風が身を切るほどに冷たくて、かえって雪の降っている富山の冷え込みの方が人に優しいのではないかと感じることも多かった。逆フェーン現象である。

日本海側の天気図にずらりと雪だるまが並ぶ日は、関東平野に乾いた北風が駆け下りてきて縮み上がるほど寒い。

六義園上空まで到達した北風が北向きの窓に「どーん」と音を立ててぶつかり、枝にしがみついて年を越した枯れ葉や種子が飛んできてベランダは吹き溜まりになっている。

(閉鎖した電脳六義園通信所 2008 年 1 月 14 日、14 年前の今日の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【どくだみ荘】

【どくだみ荘】

カメラマンの友人が、ともだちである漫画家福谷たかしが描いた『どくだみ荘』の単行本を探していると聞いていたので、以前から気にかけていた。近所の古本屋に全 35 巻セットがあるのを発見し、買ったのでいま手許にある。


友人の新居ベランダの夕暮れ

「あの35巻セットをください」
と言うのは結構楽しい体験だった。親父さんの笑顔が
「ありがとうございます!
と花が咲いたようなので、新春のおめでたさが倍増した気分である。『続・どくだみ荘』5 冊もおまけにつけて、週末に転居祝い兼、新年会でお邪魔するので手土産にすることにした。(福谷たかしさんは同 2000 年 9 月、肺水腫により 48 歳で急逝されている)

(閉鎖した電脳六義園通信所 2000 年 1 月 13 日、22 年前の今日の日記に加筆のうえ再掲載。)

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