【品川往来】

【品川往来】

静岡県清水大手。急行「なにわ」の寿司列車で鮨を握っておられたというご主人が営む『つばめ鮨』のカウンターに座って話しをしていたら
「もし東京に住むとしたら何と言っても品川に住みたいですね」
と言う。

東海道新幹線で品川駅あたりを通過すると車窓から広大な敷地に線路が錯綜しているのが眼下に見え、この品川車両基地が見下ろせる住まいで暮らしたら、鉄道好きは一生飽きることがないのだろうなと思う。

大学時代の同級生に装丁用のペーパークラフト制作を依頼し、完成した作品を受け取るため品川駅前で待ち合わせたら、
「高輪ウイングのアフタヌーンティールームでお茶でも飲もう…」
などと言われ、カタカナに気圧され、しかも品川駅前など 10 年以上も降りたことがないので心配になり、待ち合わせ時刻 1 時間前に行ってみた、

かつて日本橋を発った江戸時代の旅人はまず品川宿で 1 日目の旅装を解いたと何かの本で読んだ記憶があるけれど、新春の風物詩箱根駅伝で読売新聞東京本社前を午前 8 時にスタートした選手はその 20 分後にはここ品川駅前を通過していくわけで、いかに徒歩とはいえあまりに近すぎるので品川宿泊まりには何か別の目的があったのかもしれない。

『つばめ鮨』ご主人が
「なんといっても品川に住みたい」
という言葉に継いで
「もう建物だらけになって住んでみたところで眺望はきかないのかもしれませんが」
と言っていた。品川駅界隈はかつて薩摩藩がこの地にあった江戸中屋敷に植えた孟宗竹のように、巨大ビルがニョキニョキと生え続けている。

(閉鎖した電脳六義園通信所 2008 年 1 月 12 日、14 年前の今日の日記に加筆のうえ再掲載。)

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【ナショナルの夕暮れ】

【ナショナルの夕暮れ】

仕事帰りの電車を秋葉原で降りて小さな買い物をし、そのまま JR の高架沿いをひと駅だけ御徒町まで歩いた。

高架脇は少しだけ夕暮れが早めにやってくるので薄暗くて寒い。

薄暗い家並みに埋もれて小さな電気店があり、路上に白熱灯の明かりが灯されていた。仕事帰りの会社員がふたり店頭のプラスチックコンテナを覗いているので、何があるのだろうと横から見たらナショナルの電球型蛍光管『パルックボール』が安売りされているのだった。

親たちが年老いてからは自分たちで電球交換もできなくなり、電球というのは無いと困るときに限って突然切れるので、ことあるごとにかなり高いけれど電球型の蛍光管に換えてきた。

コンビニで買うと定価の 1800 円近くを払わなくてはならないナショナルの『パルックボール』が何と 500 円だというので 60 ワットのやつを 4 個買おうと店内に持っていく。

おとなしそうな店員が
「ありがとうございます」
と『パルックボール』を受け取り、薄笑いを浮かべて
「もうひとついりませんか?」
と聞くので、顔に似合わずなんてねちっこい商売をするヤツだろうと呆れ、
「四つもあれば十分なので結構です」
と答えると、またニヤッと笑って
「 4 個で 2000 円ですが 5 個でも 2000 円なんですよ、本当にもう一個いりませんか?」
と言われてやっと気がついた。よく読まなかったけれど 5 個以上買うと 1 個 400 円にしてくれるので 5 個買うと 4 個分のお金で済むのだった。
「あそうか、じゃあもうひとつ貰います」
と言って外から持ってきて 2000 円を払う。

なんて親切な店員だろうと心の中で感謝して外に出たけれど、思い出してみるとあのうすら笑いは
「(このバカ、算数と国語が苦手なんだろうなぁ…)」
と思って笑ってたんじゃないかと思えてきた。

とはいえおかげでひとつ得したのだから感謝しなくてはと思い直し、ナショナル『パルックボール』5 個分だけ明るい気持ちで家路をたどる。

(閉鎖した電脳六義園通信所 2008 年 1 月 11 日、14 年前の今日の日記に加筆のうえ再掲載。)

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【括弧と庵点】

【括弧と庵点】

鉤括弧は庵点(いおりてん==ユニコードで U+303 = JIS X 0213 の 1-3-28 )が変化しとものだという説がある。能の謡本や連歌などのあたまに目印として置かれる約物のひとつである庵点が括弧になったことを裏付けるように、会話の表記に用いられた古い例ではあたまの「 はあっても閉じの 」がなく、「」のペアで用いられる例が出てくるのは明治二十年代以降だという(木村大治『括弧の意味論』NTT出版)。子どもの頃、本に が出てくると読めなくて、歌詞の頭にあるので「こりゃこりゃ」とか「ちょいちょい」とかふざけて読んでいた。

庵点は庵(いおり)の形が文字になったもので、庵は「世捨て人や僧侶などの閑居する小さな草葺くさぶきの家。」と辞書にある。手持ちのフォントで「」を収録して表示できるものは多くない。いくつか打ち出してみると、古い活版印刷物を字母としたフォントは庵点も侘びていて美しい。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【パンダと駄菓子屋のおババ】

【パンダと駄菓子屋のおババ】

静岡県清水の高校を卒業して上京したら、東京上野にはカンカンとランランという一組のパンダ夫婦が住んでいた。

テレビでしか見たことのない珍奇な動物を実際に見て脱力感を味わいたくて何度か出掛けたけれど、いつも園舎の奥で壁際に寝返りうって勝手にしやがれとばかり背中を見せて寝ており、パンダというのは愛想のない動物だなと思った。

いつも寝てばかりいて愛想のない動物というと、子どもの頃近所にあった駄菓子屋のおババを思い出す。

駄菓子屋のおババは客がいないといつも店の奥にある居間のこたつで店に背を向け横になって寝ており
「ちょうだいな」
と声をかけるとうるせーガキだなと言いたげにのっそりと起きてくる。何を買おうかと迷っていると
「早く決めなよ、いくら持ってるの? なんだ 10 円か、10 円で買えるのはこれとか、これくらいしかないよ…」
などと意地が悪いのである。

わが家の引き出しを探せば壁際に寝返りうって背中を見せて寝ている、駄菓子屋のおババに似たパンダの写真が一枚くらいありそうな気がする。

(閉鎖した電脳六義園通信所 2008 年 1 月 10 日、14 年前の今日の日記に加筆のうえ再掲載。)

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【二重括弧と双鉤塡墨】

【二重括弧と双鉤塡墨】

括弧と二重括弧の使い方はおもしろい。使い方を理解すると、世の中の不思議な構造をことばであらわすのに役立つ。

なぜか知らないけど最初から「あるものはあるのだ」と二重鉤括弧に入れ、それをさらに括弧で括って「『存在』への問い」と書くと存在論になり、「『認識』への問い」と書くと認識論になる。二重括弧内の内容の「はじまり」は、なにが?だれが?とは問えなくなっている。

こういう二重鉤括弧の働きがおもしろくて調べ物リンク散歩をしたら、どういうリンクをたどってか双鈎塡墨(そうこうてんぼく)という技法が中国にあったことを知った。籠写しともいうらしい。

双鉤塡墨は紙に書かれた書蹟を複写する方法で、書の上に薄紙を置き、極細の筆で文字の輪郭を写しとり(籠字・籠写)、その中に裏から墨を塗って複製を作るものである。この方法による模写を「搨模」(とうも)と称する。(中略)双鉤塡墨による搨模は特別な技術を要せず、輪郭をあらかじめ写し取るので、熟練すれば真筆と見まごう複製すら可能になる。(ウィキペディア)

一般人では本ものと偽ものの区別がつかないものでも、その道の権威に「こちらが本もので、こちらが偽ものです」と言われると、なにかが違って見えるときその「『なにか』とはなにか」

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【タバコと芸術】

【タバコと芸術】

高校を卒業し清水を離れて一人暮らしを始め、同年配の若者に囲まれて大人への背伸びを競い、飲みたくもない酒を飲み、吸いたくもないタバコを吸って、それが常習化していった時代があった。
 
自分も含めて頭に “芸術” などという文字を冠した学問をしている学生にはとくに喫煙者が多いような気がした。


【東京芸大構内にて】

東京芸術大学構内を歩いていたら、やっぱりここの学生にも喫煙者が多いような気がする。

屋外のベンチに腰掛けてそんなことを考えていたら、女子学生が出てきて横のベンチに腰を下ろすので、わざわざ寒い屋外で休憩しなくてもいいのにと思ったら、バッグからタバコを取り出して火をつけた。


【東京芸大構内にて】

学生だけではなく女性職員や男性警備員までベンチのそばにやって来て一服するので、芸術の文字を冠した大学構内にいると、背伸びしたい学生に限らず誰でもタバコが吸いたくなるのかしらと思う。

寒いので背中を丸めてスパスパせわしなく吸う人びとを見ていると、なにかうしろめたいことをしている群像のように見える。いや、喫煙場所が限られているから喫煙者が集中しているように見えるだけで、タバコと芸術には何の関係もないかもしれない。

(閉鎖した電脳六義園通信所 2008 年 1 月 9 日、14 年前の今日の日記に加筆のうえ再掲載。)

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【これはイチョウではない】

【これはイチョウではない】

パイプの絵を描いてその下に「これはパイプではない(Ceci n'est pas une pipe)」と書き添えたのはルネ・マグリットである。


DATA : SONY Cyber-shot DSC-T1

本郷通り沿いに街路樹として植えられているイチョウの一本にわざわざ「いちょう(いちょう科)」という標識を添えたのは東京都である。


DATA : SONY Cyber-shot DSC-T1

なんでこの木にだけ標識があるかというと、幹に見事に巻き付いたツタが「これはイチョウではない」と主張しているからだ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【相身互い身】

【相身互い身】

漱石の猫には「相互」という言葉が五箇所でてきて、そのうち四箇所は

「相互を残りなく解するというが愛の第一義である」(『吾輩は猫である』)

というような【そうご】で、残り一箇所だけが

「猛虎も動物園に入れば糞豚(ふんとん)の隣りに居を占め、鴻雁(こうがん)も鳥屋に生擒(いけど)らるれば雛鶏(すうけい)と俎(まないた)を同(おな)じゅうす。庸人(ようじん)と相互(あいご)する以上は下(くだ)って庸猫(ようびょう)と化せざるべからず。庸猫たらんとすれば鼠を捕(と)らざるべからず。――吾輩はとうとう鼠をとる事に極(き)めた。」(『吾輩は猫である』)

と書かれて、【あいごする】が「相互」の文字を含んでいる。

だけど待てよ、たがいに【ごする】なら「相伍(あいご)する」と書くところで、それを「相互する」と書いているのがおもしろいなと思う。含意するところは「相身互い」なのだろう。


2004年1月11日、六義園正門前からの夕焼け

未明に目が覚めてしまったのでスマホの Kindle で発達心理の講義を読んでいて、なるほど、承認とは常に相互的なものなのだなと思い、なつかしい漱石先生の本に寄り道した。

お母さんと赤ちゃんの関係に始まる人間の飽くなき承認願望は、発達過程の段階で、組織や社会との関係においても常に相互的だ。漱石を読んで辞書をひく中で「相身互い」は「相身互い身」の省略形だと知った。相身互い身と書けば、糞豚に隣し、雛鶏と俎を同じゅうするような、庸猫たるわが身の覚悟へといたる。

庸猫は庸人との相互承認を共に生きるのである。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【待てる待てない】

【待てる待てない】

今年初めての仕事打ち合わせが根津であるのをすっかり忘れており、電話があって「あっ!」と気づき、午後 3 時まで待ってくれるというのでバスに乗って慌てて出掛けた。
 
新春から切り替わったのか「みんくるマーク」の都営バスバス停が新しくなっており、電光掲示式の「簡易型バス接近表示装置」が取り付けられていた。

3つ前のバス停留所付近にバスがさしかかると「 3 」という数字が点灯し、接近してバス停を通過するたびに「 2 」「 1 」とカウントダウンされ、1 つ前のバス停を通過すると「 0 」になる。

「簡易型」と書かれているけれどちゃんと接近するバスの運転系統を判別するようでなかなか良くできている。
 
バスというのは停留所に掲示されている時刻表通りには運行されないので急いでいる時にいつ来るかわからないバスを待つのは苦しい。待てない。けれど、3 つ前の停留所までバスが来ているとわかれば待つ気になる。待とう。

バス停でバスを待ちきれずに手をあげてタクシーを停める人が減ってタクシー会社は痛手を受けるんじゃないかとも思うけれど、3 つ前のバス停付近にバスがいない時の「 ― 」表示を見てバス停でタクシーを停める人が増える可能性もあるわけで、どっこいどっこいなのかな。

(閉鎖した電脳六義園通信所 2008 年 1 月 8 日、14 年前の今日の日記に加筆のうえ再掲載。)

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【不思議な本】

【不思議な本】

不思議な本に出会うのは珍しい。自分にとって不思議な本とは「こりゃすごいことが書いてある!」と感動して読んだくせに、しばらく間をおいて読み返そうとしたら、この本のどこがおもしろかったんだろうと目が点になるような本である。そういう本はなかなかない。読み終えたら意味がリセットされて 0 になっている。

数日前、地球温暖化によるかんばつで干上がったマダガスカルの川を見たけれど、まさにその映像そっくりで、本のページから意味の流れが消え去ってしまったように見えたのだ。

別の本を読んでいたらヴィクトール・E・フランクルからの引用があり、そうか無意味を生きる勇気ことこそが人間究極の自由なのかもしれないなということを思い、その拍子にあの「無」を冠した書名の本を思い出した。


2022/01/07 8:00の六義園
DATA : OLYMPUS E-PL3  LUMIX G X VARIO PZ 14-42mm/F3.5-5.6

夜中に目が覚めたとき寒くて布団から出られず暗闇でゴロゴロしながら読んだらどう読めるだろうと興味がわき、検索したらちゃんと電子書籍化されていた。貯まっていた Amazon のポイントを充当して 0 円で買ってみた。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【なんてごちゃごちゃしてるんだろう】

【なんてごちゃごちゃしてるんだろう】

幼い頃から鍵っ子でひとり過ごすことが多かった。布団に入っても寝付かれなくて、ごちゃごちゃと考え事をしていたら大変な謎に気づいてしまい、どうしても答えが見つからなくて毎夜身悶えるくらい悩み続けていたら、たいへんな寝ぼけ癖がついてしまって大騒ぎしたことがある。

老人のボケに認知症などという確定した病名のようなものをつけても心の真ん中で起こっていることがよくわからないように、寝ぼけなどと言えば聞こえはいいけれど、自分のことなのではっきり言えば心の真ん中の闇の中で子どもながらに狂っていたのだと思う。

そんなことで悩んでいるのは自分だけかもしれないから忘れようと思いながら大きくなったけれど、大人になって本を読んでみたらそれは人の心の真ん中にあってどんな哲学者でも解けない “人生究極の謎” なのだそうで、幼い子どもが毎晩心の闇の中で考えるには重すぎたのだと思う。

どんな哲学者でも解けない “人生究極の謎” なので今でも分不相応に重いことにかわりなく、“人生究極の謎” は上手に棚上げした状態を保って深く考えないようにし、ただ無事生きることに人生の目標のハードルを下げて自分を欺しだまし生きている。

   ***

一昨年から昨年へかけての年末年始は亡き母のごちゃごちゃした住所録を整理してすっきりしたけれど、今年は十数年使い回してきた自分の住所録を整理して過ごした。

わが家に Macintosh というコンピュータが来て以来、住所録はコンピユータ内で管理し、それを Palm や WindowsCE や PocketPC や Windows Mobile や Zaurus などポケットに入るコンピュータの住所録と同期して持ち歩き、それらを介して Windows パソコンとも同期していたのだけれど、同期を繰り返すたびに小さな齟齬が出てだんだんデータがボロボロになっていき、あらためて眺めてみたら
「(なんてごちゃごちゃしているんだろう…)」
と頭がおかしくなりそうになったので一から作り直してみた。

もう住所録専用ソフトを使っての同期はこりごりなので「あ」「か」「さ」「た」「な」「は」「ま」「や」「ら」「わ」に分類した10個のMS-DOSのテキストファイルを作り、自分なりの書式を決め、仕事関係も含めて500人ほどのデータを五十音順に並べて打ち込んでみたけれどシンプルで軽くて使いやすくてびっくりする。

MS-DOSのテキストファイルを読めないコンピュータは見あたらないので、携帯電話も含めてすべての小さなコンピュータにコピーしてみたけれど、特別のソフトを必要とせず二酸化炭素も出さないので、地球に優しい品格ある住所録になっている。

インターネットにおいて検索(サーチ)と閲覧(ブラウズ)が骨格であるように、一見問題棚上げのように見える簡潔なテキストファイルによる住所録もまた、検索機能を駆使すれば専用ソフトなどよりはるかに使いよい事にあらためて気づいてびっくりする。専用ソフトに依存して使い回しのきかない固有フォーマットに固執する時代は終わるんじゃないかな、と思ったりする。

(閉鎖した電脳六義園通信所 2008 年 1 月 7 日、14 年前の今日の日記に加筆のうえ再掲載。)

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【大雪警報】

【大雪警報】

朝のニュースでは東京 23 区内の積雪量 1 cm という予報だった。


2022/01/06 16:00の六義園
DATA : OLYMPUS E-PL3  LUMIX G X VARIO PZ 14-42mm/F3.5-5.6

それにしてはよく降るなあと思い、写真を撮っていたら、16 時 05 分発表の大雪警報が届いた。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【冬の洗顔】

【冬の洗顔】

冬の朝、洗面所で顔を洗うと袖口を濡らしてしまうので洗顔後しばらく冷たい思いをする。手のひらがつねに袖口より下になるよう洗面台に前屈みになっても、なぜかやはり袖口が濡れてしまう。洗顔後の濡れた手で高い位置にあるタオルを取るからだ。


DATA : OLYMPUS STYLUS XZ-2

そういえばテレビや映画の登場人物たちは井戸端で洗顔するとき、手拭いは腰にさげていた。今朝は雪だるまマークの予報が出て寒いので、洗顔前にタオルを取って腰にさげておいたら袖口を濡らさずに済んだ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【木下利玄と牡丹】

【木下利玄と牡丹】

牡丹花は咲き定まりて静かなり花の占めたる位置のたしかさ
 
牡丹を見るたびに思い出す白樺派の代表的歌人木下利玄の歌。
教科書等でお馴染みの歌だけれど何歳になってもちょっといいなぁと思う。

木下利玄(きのした・りげん)の略歴を読むと僕と同じ 25 歳で結婚し、長男を幼くして亡くし、その後 2 男 1 女をもうけるも三男以外は夭逝してしまい、自身も肺結核のため満 39 歳で亡くなられている。

そういういきさつを知ってしまうとなおさら感傷に浸ってしまうもうひとつの冬の歌。
 
街をゆき子供の傍を通る時蜜柑の香せり冬がまた来る

(閉鎖した電脳六義園通信所 2008 年 1 月 6 日、14 年前の今日の日記に加筆のうえ再掲載。)

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【かやの木山】

【かやの木山】

頭に大銀杏をのせて立派なまわしを締めていなかったら相撲取りはたんなる裸のメタボオヤジにすぎない。

近所の富士神社に煤(すす)けた大木があり新年を迎えるに当たって立派なしめ縄をつけたら、何年も前から見ていたはずの義父母が
「なんと立派な御神木だ」
と感動して見上げるような晴れ姿になっていた。

改めてよく眺めると煤けていたのではなく火で樹皮が焼けてしまったのであり、戦時中に投下された焼夷弾で焼かれたのだという説もあるけれど、どうも落雷説が正しいらしい。

この木はイチイ科カヤ属の常緑針葉樹であるカヤ(榧)なのだけれど、どうも「カヤ」という名には幼い頃つまずいた記憶がこびりついて離れない。

子どものころ持っていた歌の本に作詞北原白秋、作曲山田耕筰による『かやの木山の』という歌が載っていて、その頃「カヤ」というと茅葺き屋根を葺(ふ)くのに用いる草である「茅(かや)」しか知らなかったのだ。

「かや」には草ではなく木もあるなどとは知らないので『かやの木山の』を「かやの」「木山の」と読んでしまい「かやの」は「茅の」とわかるけれど「木山」というのは木の生えた山を指す一般的な呼び名なのか、どこかに「木山」という地名があるのか、どうにもわからない変な曲名だったのである。

「でっかい木だのう…」
と車いすから見上げる義父も年老いたけれど、焼かれても生き長らえたかやの木はさらに年老いている。

(閉鎖した電脳六義園通信所 2008 年 1 月 5 日、14 年前の今日の日記に加筆のうえ再掲載。)

コメント ( 0 ) | Trackback ( )
« 前ページ 次ページ »