【みかん娘】

【みかん娘】

梶原山に連なる小高い山々も、南東斜面はみかん山である。三百メートル程度の小さな山でも、みかんの畑を登って山頂に立つとその眺望に驚く。考えて見れば、東京タワーや超高層ビル展望室ほどの高さがあるみかん山なのである。

子どもの頃から、みかん山に登るのが好きだった。温暖な清水なので、冬でも一気に頂上を目指すとセーターを脱いだとしても汗ばむほどだった。斜面に腰かけて、形の良いみかんをもいで皮を剥き、口に放り込む時の清涼感はなんとも言いがたい。もちろん他人の山の作物を勝手に食べるのは窃盗行為なのだけれど、ときおり竹の籠を背負ってひょいと現れるみかん山のおじさんは、みかんを頬張る子どもを見て、
「ここで食うだけにしておけよ」
と笑って言うのだった。

清水市の男たちは概して子どもに優しい。清水弁で男の子のことは「小僧」という。「小僧」は標準弁ではないかと思われるかもしれないけれど、

こ‐ぞう【小僧】
(3)年少の男子をあなどっていう語。
(広辞苑第五版より)

のような意味で用いられるわけではない。例えばこんな風に用いる。
「おらっち小僧もはしっけぇほうだけぇが、おまっち小僧はまっとはしっけぇなぁ(うちの子どもも賢い方ですが、お宅のお子さんはさらに利発ですね)」※「はしかい」はすばしっこいが転じて頭の回転が速いこともいう
男の子は誰でも「小僧」なのだ。だから清水の男たちは自分の子どもでも他人の子どもでも区別せず小僧と呼ぶ。

山から手ぶらで降りるとふらつくといけないからと笑いながら、みかん山のおじさんにみかんがぎっしりつまった籠を背負わされたことがあるけれど、身体の大きい自分でも唸るほどだった。みかん山の農作業は重労働なのだ。

小学校が長期休暇に入り、母親に連れられて郷里の実家へ預けられるとき、東京駅ホームに緑とオレンジ色ツートンカラーの電車が入ってくると心が踊った。大好きなみかん山の色だったからで、この「湘南電車」が登場したのは 1950(昭和 25 )年のことである。みかんと茶をイメージしたという説もあるけれど、灰色の都会をあとに、湘南海岸を駆け抜け、一路みかん山を目指す夢溢れる「みかん電車」に見えた。

郷里に預けられた甥っ子を母親以上の愛情で見守ってくれた実家の嫁、大好きな叔母は山形県出身だった。子どもの頃から「この叔母さんはどうして遠い山形から、清水に嫁に来たのだろう」というのが長いこと疑問だった。四十歳を過ぎて、母親と思い出話をしながらのんびりと飲めるようになった頃、ふと思い出してこの話を持ち出してみた。

戦後、日本は男性の数が不足し、みかん農家でも収穫作業の人手不足に困った。そこで暮れの収穫作業のために特別列車を仕立て、東北地方から娘さんたちを短期の出稼ぎ要員として集めた。この少女たちを当時「みかん娘」と呼んだ。

梶原山に連なる柏尾という土地に住む親戚の者が、気立てがよく働き者の娘がいるが、嫁にどうかと跡取りの叔父に紹介した。それが叔母であり、彼女もまた「みかん娘」だったのである。

※写真はたぶん興津

(閉鎖した電脳六義園通信所 2002 年 1 月 22 日、20 年前の今日の日記に加筆のうえ再掲載。)

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