望遠鏡

2014年9月18日(木)
望遠鏡

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子どもの頃に持っていたオモチャの望遠鏡、なかでも駄菓子屋などで手軽に買えた簡便なものは、たいして遠くが見られるわけではなくて、お金を入れる観光地の望遠鏡の見え方を期待するとがっかりすることが多かった。

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遠くにあるものを近くに引き寄せて見られるということには、前方からやって来る未来を先取りして見られるような快感がある。そういう快感が欲しくて覗いた望遠鏡で、期待した効果が得られないときにやった遊びが望遠鏡の逆覗きで、今が過去という後方へ遠ざかるのを見るタイムマシンごっこに似ていた。

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逆さ望遠鏡のタイムマシンで見ると、自分のいる世界が小さく見え、自分の身のまわりにあるものが急によそよそしく見え、視界の下の方に見える自分の足でさえ、まるで他人のもののように見えるのだった。

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そして、親からもらったお金でこんなものを買ってしまい、宿題もやらないでこんな事をしていていいんだろうかと思ったりし、子どもの頃はそんな難しい言葉は知らなかったけれど、世界と自分とのあいだに第三者的な視点を獲得して眺めていたのだろうと思う。

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世の中、どうしてこんな事になってしまったんだろうと、唖然とするニュースを毎日のように見る。この先どうなってしまうのだろうと暗澹とした気分になるとき、こころに逆さ望遠鏡をあてがうようにして今を遠ざけてみると、世界がこんなじゃなかった時代はそれほど遠い昔ではなかったことに気づく。

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あれは封建主義的でけしからん、これは教条主義的で腹立たしい、あれも倫理主義的でいかがわしいし、これこそ権威主義以外の何ものでもない。今どきそんな時代遅れが通用するものか、どこの誰がそんな非効率なことをするんだ、あまりに楽天主義的すぎる、悲観主義的な考えを他人に押しつけるんじゃないなどと、あの手この手、様々な主義のシールを貼り、屁理屈を言いつらねては古いものを壊してきた。

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そして、ほら自由っていいものだろう、だいじょうぶ、みんな自由にやっていたって「ならぬことはならぬものです」ということくらい、人間ちゃんと分別をもってやっていけると思ったのだけれど、自由になってみたらちっともだいじょうぶじゃなかったわけだ。

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そして今になって慌てて、封建的だって悪いことばかりじゃない、教条的で倫理的で時代遅れだと言われようとも守らなくちゃならないものがある、などと慌てて「ならぬことはならぬものです」という歯止めをかけようとしてもそう簡単ではない。壊すことと治すことは裏返しではなくて、抜き取ったネジを元の穴に戻すのは、そう簡単ではないらしい。

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学生時代、やらなくてはならないことに追い詰められ、乱れた暮らしの収拾が付かなくなると、よく机の上に立ってみた。天上近くから自分の部屋を見下ろすと、身が引き締まる思いがして打開策を思いつくことが多かった。泣いても笑っても世界には今があるだけなので、望遠鏡を逆さ覗きして未来と過去を見比べたような気分になり、楽天主義と悲観主義をうまいこと使い分けながら、いまを切り抜けて行くしかないのだろうと。

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たぶんそういう時に役に立つ、あるがままの全体を見通す遠近自在な第三者的視点こそが自分の救いになってきた。外側にも内側にも偏しない不思議な場所から全体を眺める視点、それこそがきっと神さまの眼差しに近いのだ。

✳︎中里仁さんが描いて送られてくるイラストを見ながら、思い浮かんだことを書き添える連載『打てば響くか』(雑誌『Juntos』全国コミュニティライフサポートセンター発行)のための原稿下書き。

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ナガエコミカンソウ

2014年9月17日(水)
ナガエコミカンソウ

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東大正門から本郷通りに出て理学部脇を歩いていたら、街路樹の根元にナガエコミカンソウ(長柄小蜜柑草)別名ブラジルコミカンソウが生えていた。

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葉っぱがハリエンジュ(針槐)に似ていて、こういうマメ科植物風の造形が子どもの頃から好きだ。マメ科ではないが似ていて可愛いので、ついつい足が止まって写真を撮ってしまう。

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20世紀の終わり頃に確認された帰化植物なのだけれど、温暖化がすすむ都心ではぐんぐん生息範囲を広げているらしい。

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向丘の堀江米店で餡子ときな粉のぼた餅を買い、本郷通りを歩いて本駒込に入ったら、また歩道の脇にナガエコミカンソウが自生していたので反射的に写真を撮った。

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子どもの頃からどうしてマメ科植物風の葉っぱに心惹かれたかというと、家にあった花札で四月の藤がいちばん造形的に好きだったからだ。藤の十点札にはホトトギスが描かれており、ホトトギスの後ろには赤い月がある。ホトトギスは夜も啼く。

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もう一度オオモクゲンジ

2004年9月17日(水)
もう一度オオモクゲンジ

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東大正門前から校内に入り、安田講堂に向かって銀杏並木を直進し、校舎群のアーケード型通路が本郷通りに並行して通っている地点に来たら右折し、アーケードを次々に潜ってどんどん直進すると赤門から入って直進してきた道と交差し、左手が医学部の校舎になる。その交差地点に二本のオオモクゲンジがある。

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今から十年前の日記にそう書いたことを思い出した。その頃、母親はまだ郷里清水で生きており、週二回帰省しては介護の真似事をしていた。そんな秋の在京時、ふと思い立ってこの樹を見に来たのだ。

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中国雲南省原産のオオモクゲンジは面白い方法で種を飛ばす。三枚の葉を合わせたような袋状の実がなり、それが枯れると分裂してパラグライダーのように飛んでいく。十年前に訪れた時は、まだ枯れていない袋状の実が落ちていたので、袋を開いて種の付き方を確認してみたのだった。

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十年前に袋状の実を拾ったのは十月の初めだったが、今は九月中旬なので黄色い花が美しい。綺麗なので写真を撮っていたら、立っていても揺れを感じるほどの地震があった。茨城県南部を震源にした地震で、埼玉でも震度五弱を観測したという。

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埼玉の老人ホームで義母を昼食介助中の妻にメールしたら、ほかに気づいたのはケアワーカーと数人の老人だけだったという。数人の老人がみな、いわゆる問題行動のある老人であるのが面白く、咄嗟に地震だと声を上げて報せたり、他の入所者を気遣える人であることはとても興味深い。

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「いいなぁ」の寸景

2014年9月16日(火)
「いいなぁ」の寸景


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用もなく歩いていて偶然目にとまった景色を、ため息をつくように「いいなぁ…」と思い、どこがどういいか説明し難いときはとりあえず写真に撮ることにしている。

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「いいなぁ」の理由が言葉にならなくて写真に撮ったものをあとからじっくり読むように見ても、「いいなぁ…」と思う光景はどこがどういいかを、やはり言葉に出して説明するのが難しい。

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奇観を売り物にした観光地で、お金を払って乗り物に乗らなくてはいけないとき一番困るのは、景色を言葉にして説明するガイドがおまけについてくることだ。ガイドは結構ですと断れるなら断りたいところだけれど、そういう仕組みではないし高齢のガイドさんはそれで食べている。

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山峡を観光馬車に揺られながら「はい、向こうに見えるあの滝は天に登る龍のかたち~」などと言われるとうんざりするし、海上に突き出た二つの岩塊を「はい、あれがカメとクジラのめおと岩~」などと説明されると、笑いをこらえるのに苦労する。カメとクジラの夫婦はどんな生活をしているのだろうかと。

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言葉にしないからこそ「いい」ものは多い。「いい」は人それぞれにツボが違っている。言葉にできないものは、言葉にし尽くせない多くの情報を孕んでおり、概念化することすなわちコンセプトという言葉の語源をたどれば妊娠すること、孕むことにたどり着く。見て読んで言葉にならないことを、安易に口にしたい衝動をこらえて孕むことこそ、「いいなぁ」を丸ごとを楽しむ唯一の方法のように思う。

|しずてつジャストラインバス北街道線に乗って通りかかるたびに「いいなぁ」と思う風景に途中下車してみた|

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休肝日の愉しみ

2014年9月16日(火)
休肝日の愉しみ


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妻が週に一度の休肝日を決めてノンアルコールビールを飲んでいる。よく続くものだなと感心したので、休肝日につきあってみることにした。

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何年か前、大腸内視鏡検査をすることになってアルコール摂取を止められた際、ノンアルコールビール風飲料のまずさに辟易した記憶がある。

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ああいうまずいものを楽しい晩酌どきに飲んでいる配偶者に同情して伴走を決意したのだけれど、競争原理が働くまで市場が成長したせいか、あれこれ飲んでみたがどれも悪くない。

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ノンアルコールでも気分よく飲めるもので、お腹が膨れれば人は眠くなるものなのだなと感心した。これなら眠くなるための寝酒はいらないわけで、様々なメリットを考えると悪い考えではない。

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酔わなくても眠くなったのでいつも通り21時に就寝したら、たいへんな悪夢を見て真夜中に目が覚めた。酔って寝た時には見たことのない「しらふな夢」で、そのリアルさにうなされて飛び起きた。

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若い女性が薬物中毒の治療中で、禁断症状による妄想で暴れており、放っておくと建物から身を投げてしまいそうなので、押さえつけて抑制するのを手伝う夢だった。

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痩せた女性なのにたいへん力が強く、柔道技で布団の上に投げ倒して押さえつけるのはたやすいのだけれど、それでは暴力になってしまうとためらっていたら、顔をかきむしられそうになって飛び起きたのだ。

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目をさまして思い出しながら、こうして日記にメモしているのだけれど、断酒を阻止しようとする自分が自分に見せた悪夢のような気もしてきて、そういうことならば哲学的趣味に似ておもしろいので、来週も休肝日にして悪夢を楽しみに待つことにした。

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池をめぐる冒険

2014年9月12日(金)
池をめぐる冒険

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本郷台地を東に下る坂道や階段は多い。人や車が滑り落ちずに下れるよう、様々な工夫と手間が施されている。どれもひどく歳月を経て古びており、あたりの建物の様子が変貌しているので、なぜこんな工夫をして手間をかけたかの理由が曖昧になっている。さらに、高台には学校や研究所や病院などが多く、妙に静まりかえった地域であることも、坂道や階段にいっそう深い陰影を与えている。

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それらの坂道や階段を上がった上にいつまでも空き地となった一角があり、塀に囲まれ門に閉ざされているので、中がどうなっているかうかがい知れない不思議な場所になっている。それがどういうわけか、今日は門が開いて中の様子が少しだけ見えており、人影もないし、不法侵入を咎められそうな気配も感じられないので、スーパーの買い物袋をぶら下げた近所のオヤジ風を強調しつつ入ってみた。

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草ぼうぼうの空き地を想像していたら、大谷石を切り出して敷き詰めたような石畳になっており、中央に丸い小さな池があり、岸辺には葉の大きい南方原産と思われる木が一本植えられている。池は雨水が溜まったものにしてはひどく澄んでおり、地下から湧出しているようにも見えるが、それにしては湧きだした地下水が流れ出る水路が見あたらない。

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さらに不思議なことに、ちいさな池の中にボートが一艘浮かべられているのだけれど、池の直径より一回り全長が短いボートなので、オールを操っても方位磁石の磁針のように、池の中心でくるくる回ることしかできそうにない。こんな場所に小さな池を作り、わざわざボートを浮かべた人は、ここでいったい何をしていたのだろうかとしばらくの間考え込んでしまった……。

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子どものころは道端にしゃがみ込み、こんな小さな水たまりを覗き込んでこういう想像をしながら、午前中いっぱいくらいは夢中になっていられた。東京で交通事故に遭って死にかけた孫を田舎に引き取った祖母は、手間がかからないけれどヘンな子だと思っていたらしい。

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対談という対談

2014年9月9日(火)
対談という対談

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論を戦わす形式の対談を読んでいると、正しいことを言っていると思う人にいつの間にか肩入れして、やっつけられている人をひどく胡乱に感じたりしている、無知で無礼で視野の狭い自分に気づく。

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そのくせ、やっつけられている人が反駁をはじめると、そうか、この人はさっき、こういうことが言いたくてああ言ったのかと気づき、ページをさかのぼって読み返してみたりし、そしてこの人の方が正しいのではないかと思えてきたりする。

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そういう自分の愚かしさや狡さをみつけることが楽しくて何度も読みなおしてみる対談が、互いの考え方の共通点はわかったし、互いにあい譲れない点も明確にできた、そしてどちらが正しいかは残念ながら謎として残ったけれど、今日は有意義な対談でしたと締めくくられて終わるとき、ああ対談を読むのはいいものだなと思う。

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たとえテーマが違っても討論のすえにある究極の真理は、人間の知りえないものであることが多いわけで、テーマはどうでもいいので、よく開かれてよく閉じられた対談をあつめた対談の本があってもいいと思ったりする。よい対談を読み終えると、みなで一歩明るい場所に踏み出したように気持ちがいいから。

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「卓球選手のようなTさん」補遺

2014年9月7日(日)
「卓球選手のようなTさん」補遺

 Tさんが初めて義母のユニットに登場した時は、これはたいへんな人が現れたと驚いた。車いすにのせられて集会室へやって来た時からケアワーカーにからんでおり、
「なんでこんなことをするの? ちゃんと説明してちょうだい!」
と絶叫している。

「なんでなの? なんで車いすにのせたりするの? それで、なんでまた立たなきゃいけないの?」
お昼ごはんを食べるからだと説明すると、
「なんで椅子に移るの? ちゃんと説明してちょうだい! 説明もしないでこういうことをするから嫌なのよ! ねえ、なんでなの?」
と質問攻めにして介助を拒否するので、車いすから食事用椅子への移乗すらなかなかさせてもらえない。ケアワーカーたちが交互に声かけしてようやく着席させたものの、答えても答えても終わることのない質問攻めが続く。

 人間同士には相性というものがあって、それによって人は人に救われることがある。新人ケアワーカーのYくんは、ノートと鉛筆をもっていて、介護しながら先輩ケアワーカーの話をメモする熱心な若者である。まだまだぎこちないところも多いけれど、Tさんの相手をするのがうまい。たいしたものだと褒めたら
「ああいうお年寄りが好きなんです」
と言う。昼食介助中、TさんとYくんの掛け合いが漫才のように面白いのでメモしておいた。

Tさん「どうするの?」
Yくん「ご飯を食べていただくんです」
Tさん「ご飯ってなに?」
Yくん「ご飯は白身魚のフライです」
Tさん「それをどうするの?」
Yくん「食べていただくんです」
Tさん「あ、そう。だいじょうぶかなぁ?」
Yくん「だいじょうぶですよ」
Tさん「あ、そう」
Yくん「ちゃんとお茶碗持って食べた方がこぼさないですよ」
Tさん「はい」

 Tさんの視線が焦点を結ばないのでおかしいなとおもったら、Tさんは後天的にほとんど視力がないらしい。
Tさん「なにか落ちたよ」
Yくん「スプーンが落ちたんです」
Tさん「どうして落ちたの?」
Yくん「Tさんとテーブルの間に隙間があるじゃないですか、そこから落ちたんです」
Tさん「ふーん、それでだいじょうぶなの?」
Yくん「だいじょうぶですよ」
Tさん「あ、そう」

 Tさんは目が不自由なので、不安な世界を言葉で手探りしているのだろう。忙しいベテランケアワーカーは、何とか手早く安心させようと要点を凝縮して返事をするので、点の反応では世界に触りにくい。素っ気ないようでも、ピンポンのラリーのように応じてくれる人がいることで、Tさんは自分と向き合っている壁を見つけて安心し、最後には
「あ、そう。だいじょうぶかなぁ?」
が出て、Yくんの
「だいじょうぶですよ」
に安心し質問攻めが終息するのである。在宅介護で家族を苦しませた義父の偏執も、そういうことだったのかなぁとTさんとYくんを見ていて思うけれど、家族内でテンポのよいピンポンはなかなかできることではない。

   ***

 上記は「装丁者のひとりごと 老人ホーム寸描 旅路の果ての詩人たち4 卓球選手のようなTさん」と題して介護者向けの月刊誌『Bricolage』230号に掲載した原稿である。このTさんも見かけなくなって久しく、今となってはとても懐かしい。

 Tさんに初めて会ったときの暗澹とした気分をいまも忘れない。そうやってからみだしたら夜が明けるまで家族を寝かせなかった義父のことを思い出したからだ。それは質問だけあって答えが永久に見つからない、インド論理学にある無限遡及のような義父の戦略に思えた。

「おとうさん、これでは家族の身がもたなくて死んでしまう」
という娘の訴えにも薄笑いして、おらの方がよっぽどたいへんなんだと言いたげだったそれである。

 家族は絶望する。絶望して死んでしまいたくなる。だが卓球の試合前に対戦者同士がラリーをするように、お互いが壁になって行う言葉のピンポンをやってみると、プロの卓球選手でさえそうであるように、素人が行う言葉のピンポンも長くは続かない。相手が相手の存在に納得してあきらめるまで、言葉のピンポンを続けられれば必ずブレイクスルーとしての突破口はやってくる。いまならそう思うけれど在宅介護の場では難しい。

 施設のケアワーカーには同僚がいて、もうだめだとなれば代わりがおり、泣いても笑っても勤務時間の終わりが必ず来るけれど、在宅の介護家族には代わりがいないし、タイムアップも来ないのだ。

 確かに質問攻めにしてめんどうな年寄りだけれど、車いすなしで立つこともできるし、家族の支えで在宅できるのではないかなどと他人が言うのは、無限訴求の先にある哲学的な絶望を知らないからだ。一対一で向かい合う介護家族はそんなに強くない。

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こころの境界線を歩く

2014年9月3日(水)
こころの境界線を歩く

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経済の様子が怪しくなってからというもの、こころのバランスを崩す人がまわりで増えてきた。こころとは不思議なものだと思うたびに、西洋人が書いた精神分析の入門書などを手にとってみるのだけれど、頭が悪いのでよくわからない。

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夏目漱石の『こころ』ではなく『坊ちゃん』こそが、この時代にあらためて読まれるべき本ではないかと書かれている人がいたので、半世紀ぶりに読み返しながら漱石の神経衰弱について考えた。

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考えているうちに森田療法について読んでみたくなったので、良さそうな本を見繕い、岩井寛『森田療法』を取り寄せて読んでみた。意外なことにいきなり松岡正剛による追悼文があり、「まず、最終章『終わりに』から読まれたい」と書かれている。

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あとがきを読んでみたら、著者の岩井寛は末期のガンに身体をおかされ、様々な機能を失いながら口述筆記でこの本を書き上げたとあった。そうか、1980年代中頃、松岡さんが死を迎えつつある精神科医に寄り添って聞き書きをしていると聞いたけれど、あの精神科医はこの岩井寛だったのかと知って合点がいき、絶版になっている『生と死の境界線』を古書で取り寄せて読んでみた。

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岩井寛が語ったことを読みながら、精神分析というのは仏教に似ているのだなと思い、彼の口から何度か名前の出た三枝充悳(さいぐさ・みつよし)の書いた本が読みたくなった。

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三枝さんはたいへんな仏教学者だったそうで、頭が悪くてついていけない確率が非常に高い。対機説法的に語られた本はないかしらと探したら、心理学者で精神分析者岸田秀との間で行われた『仏教と精神分析』という対談集を見つけた。この緊張と弛緩がない交ぜになった対話は、編集長だった三浦雅士によって雑誌『現代思想』に連載され、小学館、青土社で書籍化されて絶版となったのち、レグルス文庫に収録されて今でも入手できるようになっている。

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0.3mmのシャープペンシルを持ち、こころが引っかかりを持った箇所に鉛筆で傍線を引きながら一気に通読し、傍線箇所を目印に再読しながら番号を振り、辞書を引いたり他の本を読んだりして、わからなかった言葉の意味や意図を転記し、なぜ引っかかったのかを自分の言葉で簡潔に書き込みながら『仏教と精神分析』を読み終えた。むずかしい本はたいがいそうやって読み、再読を終える頃には、頭が悪いぶんだけ脚注のある親切な改訂新版になっている。そういう改訂新版を読む三度目にはまた新たな発見がある。

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そういう書き込みだらけになった本を見て笑われる。他人は笑いながら「おえらいですね」などと言う。妻もまた笑うけれど、身内なので「えらいね」とは言わない。他人や身内に分け隔てなく笑われながら、頭が悪いとはどういうことかを身をもって顕現化しているわけだ。

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では、頭がいいとはどういうことかが、この夏に読んだ本の「語りの世界」を通じてふいにわかった、ような気がする。

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同級生だった妻は不思議に頭のいい人で、何でこんな字を知らない、何でそんなことも知らないのだと夫に笑われながら、相手を質問攻めにしつつ姿勢を立て直すのがうまい。そういう要領の良さに腹を立て、あきれつつ感心していたのだけれど、頭がいいというのはどうやら「状態」ではなく「関係」のもちかたのことらしい。知らない事は逐一堂々と聞けばよいという態度が頭のいい人には共通している。身構えない人は物怖じしない。身構える人は無口になり、物怖じしない人は饒舌である。

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自分の頭が悪いと思っている人間の身構え方というのは、一所懸命に書き溜めてことばのバリケードを積んでいるようなもので、それはひとさまに笑われる読書後の改訂新版を見れば明らかだ。一方、身構えない人にとってことばは、使い捨てていく伝達の道具に過ぎず、ことばはそもそも不完全なので、関係の中で常に喋り続け、改訂し続けていくのが正しいのかもしれない。

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あれ?、ということは、人が生まれたのち、さまざまな壁に行く手を遮られながら、共同の抑圧によって社会をつくり上げるように、ことばも発せられては問い返され、壁に行く手を遮られながら改訂を続けていく、迷いというか、幻想というか、いわば神経症的なものなのだなと気づく。

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けれど、正しいとわかった気がしても、どうしてもそれができず物怖じして身構えてしまうのは、自分は頭が悪いわけではないのに頭が悪いということにさせられた、これ以上頭が悪いと言われて恥をかきたくないと思う、過去の挫折への屈託があるからなのだ。けれど、自分は頭が悪いと思い込んでいる人が本当に頭が悪いとしたら、頭が悪いことを見抜いた自分は頭がいいわけで、そういう矛盾も見切った上で屈託しているというきわめて心身症的な事態である。

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そういう事態をあるがままに受け止めて、心身症的世界を心身症的に突破するために、本を読んで饒舌に改訂しながら無言でバリケードを積むのである。(引用なしで書評してみた)

講談社現代新書0824
『森田療法』
著者:岩井寛
発行:講談社
定価:700円+税

『生と死の境界線——[最後の自由]を生きる』
著者:岩井寛[口述]松岡正剛[構成]
発行:講談社
定価:1,900+税(絶版)

レグルス文庫223
『仏教と精神分析』
著者:三枝充悳+岸田秀
発行:第三文明社
定価:900+税

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バスを待つあいだ

2014年9月2日(火)
バスを待つあいだ

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最寄りの停留所でバスを待つあいだ、いつも目につくのがベンチ脇の歩道に生えているコケで、敷石同士の隙間に身をねじこむようにして、少しずつ生息範囲を拡げている。

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六義園からベランダに飛来して発芽した、実生のカエデを小さな鉢に植えて育てている。静岡出張帰りにジャンボエンチョーで買った盆栽用の小さな鉢に植えかえ、見映えと保水効果を期待して、ネット上で見つけた盆栽業者からコケをひとパック取り寄せて敷き詰めている。

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毎朝たっぷり水やりして大切にしているつもりなのだけれど、すくすくと天に向かって伸びていくカエデに比べて、地を這うコケどもの元気がなくて、どうしてだろうと首をひねっている。

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それにひきかえ、なんの手入れもされていない歩道に自生するコケどもは元気だ。夏の日照りが続くとカラカラに乾いたゴミのようになっていじけているけれど、ジトジトとした雨が長引くと、あっという間に生気を取り戻して青々している。

04
しょせん人為は自然に敵わないと、さっさと降参して道端の生物多様性の魔法に、恐れ入りましたとひれ伏してしまいたくなる。若い頃は試行錯誤しながら自然に立ち向かう楽しみもあったけれど、やがて人生を終えて仲間入りが近い路傍の自然に、肩入れしたい気持ちのほうが最近は勝っている。

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それでも、なまじフカフカの土でないのが良いのかな、浸透性を考慮した敷石が降雨後の保水効果をも高めているのかな、敷石が太陽の熱エネルギーを蓄えて石垣栽培風になっているからかななどと、バスを待つあいだちょっと人間側に片足を突っ込んだまま考えたりもしている。

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