▼高台の金太郎

新宿区西五軒町にある出版社で行われる会議に
早めに着いたので神楽坂界隈を散歩していたら急な坂と石段があり、
登り切った頂きに筑土(つくど)八幡という神社があった。

境内に楽譜を刻んだ石碑があり
「言文一致唱歌」の改革を行なった中心的人物田村虎蔵の顕彰碑だった。



刻まれた楽譜は作詞 石原和三郎/作曲 田村虎蔵という
東京高等師範名コンビによる『金太郎』で、
田村虎蔵はこの筑土八幡裏手に住んでいたのだという。
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▼神楽坂2009

古いデジカメで使える512メガバイトのXDピクチャーカードを見つけ出し
試し撮りしながら細い路地を抜けたら神楽坂だった。



脇道から偶然見慣れた通りに出たせいか
遠い昔から戻ってきたように新鮮な気分で街が見える。
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▼表面と向こう側

子どもの頃からギザギザした向こう側の見えない窓ガラスが好きだった。
透明ガラスというのは汚れていない限りまるでそれ自体がないように透明で
ふれない限り表面はなくて向こう側の景色だけがあった。



ギザギザのガラスというのは表面がよく見えるかわり向こう側が見えない。
ガラスに見通しを拒絶されている自分がこちら側にある。
それでもギザギザのガラス近くを何かが通ると
それが何かはわからないけれどぼんやり向こう側が見える。

イヌやネコもそれが好きなようで飽くことなく眺めていたりする。
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▼一月のカレンダー

景気がかんばしくないせいか
最近はカレンダーが貰えなくなったと
こぼしていた母が喜びそうな光景。
母は家中あちこちにカレンダーを貼りたい人だった。



定期的に血圧の薬を貰いに行っている近所の診療所。
医院には製薬メーカーなどからの
手帳やカレンダーが集中してもてあますらしく
この反対側にもたくさんあった。

しかもこの分野ではお金をふんだんにかけているのか、
ドイツの製薬メーカーの手帳などはびっくりするほど作りがよい。
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▼108……スポーティーな女性像



荒川区東日暮里。

手作り派の若い女性たちで賑わう日暮里繊維街。
クリーニング店の懐旧趣味をくすぐる看板。



女性のファッションのことはよくわからないけれど
今の女性もこの絵を見てスポーティーと感じるのだろうか。

僕にはNHK天気予報の半井さん並みにとてもドレッシーに見えてしまい
女性のスポーティーな姿というと
ついついジャージを着たママチャリ姿を思い浮かべてしまう。
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▼107……保健所と手洗い



台東区上野桜木の飲食店にあった懐かしい手洗い。

これと同じ形の物が母親の営んでいた飲み屋にもあった。
「保健所がうるさくて困る」
と母はよく愚痴をこぼしていた。

保健所が来るたびに
狭い店内のここに手洗いをつけろとか消毒用石けんをつけろとか
あれこれ改善命令を出していくのであり、
それに従えない店は仕方なしに廃業していった。
そうやって郷里の港町から
屋台や掘っ立て小屋の飲み屋が消えていった時代がある。

衛生思想は街の活力を奪う一面も併せ持つ。



「こんな狭い店にこんな手洗いがあったら邪魔で仕方ない」
と母は言い、保健所が帰ると取り外し
保健所が来ると聞くと慌てて取り付けるのが僕の役目だったので
この形の手洗いを見るとひどく懐かしい。
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▼106……信濃坂と筆と一乗寺



不忍通り根津交差点から上野桜木へ向かう坂道。
その坂の名を善光寺坂、別名信濃坂と言う。
かつて坂の上に信濃善光寺の子院があったからで
名前だけが今も残っている。



台東区谷中。
信濃坂の途中に筆の店があり、飾り窓をのぞいているだけで楽しい。
窓に映っているのは元和年間(1615-24)創建の一乗寺。
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▼105……根津神社に向かう小径



森鴎外が住んでいた家は、
団子坂をのぼってすぐのところにあった。
坂をのぼり切ると一本はそのまま真直に肴町へ、右は林町へ折れ、
左の一本は細くくねって
昔太田ケ原と呼ばれた崖沿いに根津権現に出る。
(宮本百合子『田端の汽車そのほか』より)



宮本百合子が書いた団子坂上から崖沿いに根津権現へ向かう道は
通称藪下通りと呼ばれており
この辺りの風情はまだ往時の面影をとどめているかもしれない。
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▼104……根津神社楼門の大きさ



文京区根津一丁目。
国の重要文化財に指定されている総漆塗りの社殿と楼門に
昨年7月から今年9月までかけて漆塗り工事が行われている。



面白いもので、巨大とは思わないけれど
大きいなぁと思って見上げていた楼門が
子どもが描く家のような形に覆われることによって
ずいぶんこぢんまりした楼門だったんだなぁと思えたりする。
これも錯視の一種と言えなくもない。
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▼冬の愛玉子

新潟の友人が上京して、家人と二人
根津にある文京区地域センターで楽器の練習をしたので
昼食を兼ねて合流し、根津『信濃屋』で食事をし
言問通りの坂道を上って気に入りの店に案内した。



台東区上野桜木。
大正時代から『愛玉子(オーギョーチ)』の看板を掲げて
愛玉子一筋に商売されている愛玉子は
店の名も商品も愛玉子であるがゆえに
テーブルに漏れ来る光さえ、いつ来ても変わらずにいる。
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▼日暮里NOW


新潟から上京した友人を案内しつつ
根津から上野桜木・千駄木・谷中を経て
夕焼け段々をのぼりJR日暮里駅までおくりがてら歩いた。



日暮里舎人ライナー開通とともに
北口の再開発が行われていることは知っていたけれど、
永年見慣れた寺町風景の向こうに
書き割りのような高層マンションが並ぶとやっぱりびっくりする。



映画『男はつらいよ』おいちゃん役の名優森川信のように
「あーあ、おら知らなねえよ…」
と言いたくなる。
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▼立ち呑みと年齢

新橋二丁目の立ち呑み屋。
1歳年下で静岡県清水の中学高校を通じて後輩だった友だちに新橋で会ったら
「立ち飲み屋で呑みましょうよ」
と言われ「(こいつ若いなぁ)」と思いつつ
自分の精神および肉体年齢を微調整した。



同年配の友だちと外で飲む機会を持つことの利点は
他人の精神および肉体年齢に都合良く合わせられる機会を得ることであり、
「(とにかく座れる店ならどこでもいいや……)」
などと思いがちな自分を悔い改める。
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▼103……虎ノ門琴平タワー



港区虎ノ門1-2-7。
1660(万治3)年に讃岐丸亀藩主京極高和が
江戸藩邸に勧請した讃岐金比羅宮が
1679(延宝7)年、この場所に移ってきて
今もここに鎮座し続けている。



その場所に高層オフィスビルが建って
古い神社と見事融合してハイブリッド構造になっている。
これは大した作品だと驚いたので検索したら
日建設計の仕事だと聞いてなるほどと思う。
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▼102……佐野繁次郎としまだ鮨



港区西新橋1-13-6。

洋画家佐野繁次郎設計による数寄屋造りの寿司店。
初めて見たときから何も変わらない風景。



看板の味わいある文字も
彼の手になるパピリオ化粧品パッケージを思い出させる。
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▼101……立ち止まる言葉



港区虎ノ門界隈。

歩いていてつい足が止まってしまう店の佇まいというものがあり、
なかなかその前から立ち去りがたくて、
でも先を急ぐのでとりあえず写真を撮ったりする。



帰宅して自分のアルパムに写真を貼りながら
何かひとこと書き添えようと思うのだけれど
どうしても言葉にならない風景というのがある。
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