【親子尺】

【親子尺】

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2001 年 12 月 7 日の日記再掲)

親の年齢引く子の年齢イコール親子の歳の差、これを親子尺と言う。今、僕がそう決めた。

親子尺を自分の年齢に足してやれば「お母さまは何歳におなりですか?」と聞かれてもとっさに答えられるのが第一の効用。そして親子尺を加算した自分の年齢には、皮膚が弛み、背が縮み、背中が丸くなり、がに股になって親と同じ姿になる自分の未来が隠されている。かつて天と地ほどの隔たりもあるように感じられた親子の歳の差が、このちっぽけな親子尺程度のものであったことに今さらながら唖然とする。親子尺分生きたら僕も爺さんなのだ。

母は午年生まれで、二度目の年女の午年に僕を生んだから、僕も当然午年生まれ、十二支二周遅れで親子尺は「 24 」ということになる。その僕が二度目の年男の午年に郷里に帰省した時のこと。

日暮れて、母が営む飲み屋の暖簾がかけられるのを見届けてから、清水駅発東京行きの在来線に乗って故郷を後にする習慣にしていたのだけれど、ふと思い立って
「好きな人がいて結婚したいと話し合ってる」
と言ってみた。母は驚き、やがて怒り出し、
「どうしてそういう大切な事を帰る間際に言う、次に帰ってくるときにはその娘さんを連れておいで」
と僕に言い含めた。娘を嫁に出す父親は、他の男に愛する人を奪われる心境になるというけれど、愛する男を奪われる心境だったと母は笑いながら後に述懐していた。

そして再来年、妻はその時の母と同い年になる。一歳年下だから親子尺は+1なのだ。母は若い母親だったのだなぁと妻の横顔を見てつくづく思う。妻は妻で、僕の親子尺を利用して、母が東京を引き払い清水で飲食店を開いた歳、親子尺+ 12 イコール 36 歳に驚嘆し、
「お母さん、頑張ったねぇ。36 歳で自分の人生を大転換したんだね。凄いなぁ」
と事あるごとに話題にし、母も
「無我夢中だったんだねぇ、よく借金する勇気があったもんだと感心するよ」
などと語り合っている。

精神看護関係の書籍の仕事で新宿の職安通りへ。ファックスで送られて来た地図には、JR 新大久保駅から線路づたいの道を辿ると近道とある。懐かしい、四十数年前と何も変わっていない風景がそこにはあった。新大久保近くの和菓子店で職人をしていた父、そこで住み込み職人のまかないをしていた母と三人でよく通った道なのだ。

その頃から父母の間には喧嘩が絶えなかった。喧嘩の末、家を飛び出す母は
「何かあったらこれをお金に替えなさい」
と結婚指輪を指から抜いて僕に握らせたものだ。何度母の指と僕の手のひらを往復したかわからない思い出の結婚指輪である。

そんな両親でも、週末の夜、新宿コマ劇場界隈に深夜興業の映画を見に行く時だけは仲が良く、夜更けの線路ぎわをを歩いて帰る時、両親と手を繋いで宙に持ち上げてもらうのが大好きで、
「高い高いして!」
と、よくねだったものである。やがて和菓子店は駒場の松見坂に移り、両親の引っ越しに伴い、僕も目黒の幼稚園に通うようになった。その頃にはもう「高い高い」してもらった記憶は無くて、僕が間に入ってもすでに修復不能なほどに、両親の仲は冷え切っていたのだと思う。

写真は 2001 年 12 月 7 日 新大久保

バブル経済と呼ばれた時代、東京中オフィスビルとマンションで埋め尽くされてしまうのかとも思われたけれど、今こうして歩いてみると何も変わっていない。更地には雑草が生え、コンクリートの階段はあちこち欠けても昔のままで、新宿西口を体よく追い払われたホームレスたちが寒風に身を丸くしてうずくまっている。遠いあの日、三、四歳だった僕に親子尺を足してみると二十七、八歳の両親ができ上がる。ふたりとも若かったんだなぁと思う。喧嘩に明け暮れる日々にポッカリ空いたしばしの安らぎの夜、僕の手を引いた両親はどんな思いでこの道を歩いていたのだろう。

親の年齢引く子の年齢、親子の物差しで時代を計測し噛み締めるように線路づたいを歩く。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )
« 【思い出の捨... 【暴力の人】 »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。