特異な人


D3 + AF-S NIKKOR 14-24mm F2.8G ED

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堀越二郎氏は、零戦の主任設計者として世界的に有名だ。
氏が1982年に亡くなられた時は、NHKのニュースでも大きく取り上げられていたのを思い出す。

零式艦上戦闘機、通称零戦は、日本の工業製品として初めて世界を制覇したものと言われている。
飛行機は、当たり前ではあるが、物理的な制約を越えた飛行は出来ない。
バランス上どの性能を重視し、如何にそれを磨き上げるかで、その飛行機の評価は決まるといえる。

零戦のずば抜けた旋回性能と長大な航続距離は、当時の戦闘様式に極めて有効に機能した。
登場直後は事実上敵がいない状態で、連戦連勝、しかも戦時中の異様な開発速度の中にも関わらず、その状態がけっこう長く続いた。
それは、東洋の二流国にそのようなものが作れるはずはない・・と信じ込んでいた欧米人たちを驚愕させた。
旋回戦を挑めばほとんど落とされてしまうという神秘的なほどの強さに、零戦は彼らから悪魔と恐れられるようになった。

やがて不時着機が拿捕され、性能上の欠点が明らかになり、零戦の神話に翳りが見られるようになった。
一撃離脱法に戦法を変えた敵機にとって、防弾性能が貧弱でパワーも見劣りするようになった零戦はカモであった。
酷使によりベテランの搭乗員が減っていき、資源の枯渇で品質も大幅に落ち、零戦の神話は完全に崩壊した。

零戦の時代は終わりを告げたが、日本にはその次を担う戦闘機を開発する国力はなかった。
零戦の衰退は日本の敗退とほぼ一致する形で進んだと言われる。
最後は爆弾を背負い、特攻機として多くの若者の命とともに散っていった零戦は、日本人の心を象徴するまさに特異な存在となった。

ところでそれほどの名機を作り上げた堀越二郎氏だが、極めて個性の強い変わった人物であったと聞く。
たとえば部下が食事に牛乳を持っていくと、温度計で温度を測り飲んでいたというのだ。
ベストの温度が決まっていたらしい。

坂井三郎氏も、著書の中で面白いことを書いている。
元日の朝に堀越氏から自宅に電話があり、この速度でこういう操作をしたら零戦はどういう動きをするだろうか?といきなり質問された。
坂井氏が思い出しながら答えると、堀越氏は計算機を叩きながら、やはりあなたに聞くのが一番正確な答えが得られる・・と納得されて電話を切られたが、最後まで元日の挨拶をすることなく終わってしまったというのだ(笑)

なぜ急に堀越氏のことを書いたかというと、実は吉村昭氏のエッセイ集に堀越氏に関するエピソードが出ているのを読んだからだ。
当初吉村氏は、戦時中に三菱重工の名古屋航空機製作所で働いていた勤労学徒が、地震と空襲で大勢亡くなったという話を取材していた。
ところが、48キロ離れた各務原飛行場まで零戦を牛車でノロノロ運んだ・・という面白い話を聞き、そちらの取材に夢中になってしまったという。
その結果「零式戦闘機」という小説を書き上げたが、当然飛行機に関する知識はないので、主任設計者であった堀越氏にお願いし、自宅に数十回通い教示を受けた。

「堀越氏は、私が今までふれたことのない特異な人であった。温厚で気品のある紳士で、決して感情を表に出すようなことはなかったが、些細な誤りにも妥協せぬ強靭な意志の持主であった。その粘着性の強い性格に、私も音をあげたが、このような人だからこそあの名機が生まれたのかと感嘆もした」(「馬と牛と団平船」より)

あれほど大勢の人物に取材している吉村氏をして「今までふれたことのない特異な人」といわしめたのだ。
吉村氏が取材相手に対してこのような書き方をしているのを読んだことがない。
しかも吉村氏は、「そうした苦痛に堪えながら」本を書き上げた・・とまで書かれている。
それを読んだ時、様子が思い浮かび、思わず吹き出してしまった(笑)
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