米大統領選のさなか、陰謀論好きがあれこれネットにアップしていた。その中に<プーチンとトランプが手を携え、ユダヤ系の力を削ぐ>というのがあったが、的外れだった。トランプは似た者同士のイスラエル・ネタニヤフ首相との会談で、米政権が踏襲してきた<2国家共存>の見直しを示唆した。
<福島-パレスチナ-沖縄>を同一の視座で捉えるリベラル&左派にとって、日本を加えた〝悪の枢軸〟が成立しつつある。ある意味、わかりやすくて好都合だが、「脱」や「反」の定冠詞を用いると、言葉の内実を貧弱にする。直感で動くべき若い世代はともかく、還暦を過ぎた俺は腰を据えて現実に向き合いたい。
先週は2本の秀逸なドキュメンタリーを堪能した。まずはシネマート新宿で見た「太陽の下で」(15年、ヴィタリー・マンスキー監督)から。金正男暗殺事件が動員アップに繋がったのか、まずまずの入りだった。
本作には仕掛けとフェイクがある。主役は平壌の高級住宅街に両親と暮らす8歳の少女ジンミだ。北朝鮮最大の祝日「太陽節」で、ジンミが踊りを披露するというシナリオに沿って、北朝鮮側の演出担当者が指示を出している。ちなみに、ジンミの父は新聞記者だが、本作では工場長という設定になっていた。
「1984」の未来形である北朝鮮では、<ビッグブラザー=朝鮮労働党>が人々を監視している。ストーリーに組み込まれた配役だけでなく、数万倍に及ぶ一般市民も恐怖に駆られて演技している。その姿を撮りながら、マンスキーは表情の奥に潜む心情を影絵のように焼き付けていた。空疎な仕組みに馴染んでいない子供たちにも、自由の扉は閉ざされている。ラストで「楽しいこと、好きなこと」を問われたジンミの反応が切なかった。
俺の母は北朝鮮の映像を見るたび、戦前の日本を思い出すという。1930年代、労働争議、小作争議が相次ぎ、学生たちも体制に異議を唱えた。都市部ではジャズが流行し、ダンスホールには人が溢れていた。チャプリンは32年、ベーブ・ルース一行は34年、ヘレン・ケラーは37年に来日し、それぞれ大歓迎を受ける。「駅馬車」公開は40年だが、1年後には「鬼畜米英」がスローガンになる。国民洗脳のスピードは北朝鮮以上かもしれない。現在の日本が恐ろしくなる。
週末には第14回ソシアルシネマクラブすぎなみ上映会(高円寺グレイン)で「バレンタイン一揆」(2012年、吉村瞳監督)を見た。テーマは「フェアトレード」、即ち<発展途上国で作られた食物や製品を適正な価格で継続的に購入することで、生産地の生活向上を目指すこと>である。ガーナに赴いた10代の女性3人の奮闘と比べ、実践を伴わず<反グローバリズム>なんて吐き散らかす自分が恥ずかしくなった。
彼女たちはカカオ農園における児童労働の実態を知り、子供たちを学校に通わせようと尽力するプロジェクトのリーダーと交流して、日本で見えなかった<世界の真実>に触れる。「ポバティー・インク」(14年)を紹介した稿(1月25日)でも記したが、〝偽善的慈善〟は構造を変えない。生産者と消費者を結ぶフェアトレードがスタートラインになるのだ。カカオ農場の人々は誰も完成品を食べたことがなく、3人に手渡されたチョコを口に含み、誰もが笑みを浮かべていた。
帰国した3人は仲間とともに、<フェアトレードで輸入されたチョコをバレンタインデーに贈ろう>というイベントを企画した。若い女性たち中心に週末の銀座で街宣するが。反応は悪い。話を聞いてくれても、フェアトレードの理念に関心を持つ人はいなかった。俺も時折、街でビラをまく。汚らしいオヤジは当然、冷たくあしらわれるが、若い女性たちでも状況にさほど変わりない。意見をフェアに戦わせるという空気は、この国から消えてしまったようだ。
観賞後、日本とメキシコを行き来し、フェアトレードに取り組んでいる杉山世子さん(豆之木代表)をゲストに迎え、トークセッションが催された。アフリカでも暮らした経験がある杉山さんは、両地の気質の違いを話してくれた。熊本を筆頭にフェアトレードタウンを目指している自治体も増えてきており、杉山さんは浜松でプロジェクトに参加している。日本も変わりつつあるが、まだ間に合うのだろうか。
<福島-パレスチナ-沖縄>を同一の視座で捉えるリベラル&左派にとって、日本を加えた〝悪の枢軸〟が成立しつつある。ある意味、わかりやすくて好都合だが、「脱」や「反」の定冠詞を用いると、言葉の内実を貧弱にする。直感で動くべき若い世代はともかく、還暦を過ぎた俺は腰を据えて現実に向き合いたい。
先週は2本の秀逸なドキュメンタリーを堪能した。まずはシネマート新宿で見た「太陽の下で」(15年、ヴィタリー・マンスキー監督)から。金正男暗殺事件が動員アップに繋がったのか、まずまずの入りだった。
本作には仕掛けとフェイクがある。主役は平壌の高級住宅街に両親と暮らす8歳の少女ジンミだ。北朝鮮最大の祝日「太陽節」で、ジンミが踊りを披露するというシナリオに沿って、北朝鮮側の演出担当者が指示を出している。ちなみに、ジンミの父は新聞記者だが、本作では工場長という設定になっていた。
「1984」の未来形である北朝鮮では、<ビッグブラザー=朝鮮労働党>が人々を監視している。ストーリーに組み込まれた配役だけでなく、数万倍に及ぶ一般市民も恐怖に駆られて演技している。その姿を撮りながら、マンスキーは表情の奥に潜む心情を影絵のように焼き付けていた。空疎な仕組みに馴染んでいない子供たちにも、自由の扉は閉ざされている。ラストで「楽しいこと、好きなこと」を問われたジンミの反応が切なかった。
俺の母は北朝鮮の映像を見るたび、戦前の日本を思い出すという。1930年代、労働争議、小作争議が相次ぎ、学生たちも体制に異議を唱えた。都市部ではジャズが流行し、ダンスホールには人が溢れていた。チャプリンは32年、ベーブ・ルース一行は34年、ヘレン・ケラーは37年に来日し、それぞれ大歓迎を受ける。「駅馬車」公開は40年だが、1年後には「鬼畜米英」がスローガンになる。国民洗脳のスピードは北朝鮮以上かもしれない。現在の日本が恐ろしくなる。
週末には第14回ソシアルシネマクラブすぎなみ上映会(高円寺グレイン)で「バレンタイン一揆」(2012年、吉村瞳監督)を見た。テーマは「フェアトレード」、即ち<発展途上国で作られた食物や製品を適正な価格で継続的に購入することで、生産地の生活向上を目指すこと>である。ガーナに赴いた10代の女性3人の奮闘と比べ、実践を伴わず<反グローバリズム>なんて吐き散らかす自分が恥ずかしくなった。
彼女たちはカカオ農園における児童労働の実態を知り、子供たちを学校に通わせようと尽力するプロジェクトのリーダーと交流して、日本で見えなかった<世界の真実>に触れる。「ポバティー・インク」(14年)を紹介した稿(1月25日)でも記したが、〝偽善的慈善〟は構造を変えない。生産者と消費者を結ぶフェアトレードがスタートラインになるのだ。カカオ農場の人々は誰も完成品を食べたことがなく、3人に手渡されたチョコを口に含み、誰もが笑みを浮かべていた。
帰国した3人は仲間とともに、<フェアトレードで輸入されたチョコをバレンタインデーに贈ろう>というイベントを企画した。若い女性たち中心に週末の銀座で街宣するが。反応は悪い。話を聞いてくれても、フェアトレードの理念に関心を持つ人はいなかった。俺も時折、街でビラをまく。汚らしいオヤジは当然、冷たくあしらわれるが、若い女性たちでも状況にさほど変わりない。意見をフェアに戦わせるという空気は、この国から消えてしまったようだ。
観賞後、日本とメキシコを行き来し、フェアトレードに取り組んでいる杉山世子さん(豆之木代表)をゲストに迎え、トークセッションが催された。アフリカでも暮らした経験がある杉山さんは、両地の気質の違いを話してくれた。熊本を筆頭にフェアトレードタウンを目指している自治体も増えてきており、杉山さんは浜松でプロジェクトに参加している。日本も変わりつつあるが、まだ間に合うのだろうか。