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酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「唐牛伝」~光芒を放つ漂流者の生き様

2016-12-02 11:39:15 | 読書
 佐野眞一の新作「唐牛伝~敗者の戦後漂流」(小学館)を読了した。4年前、〝ノンフィクションを殺した男〟のレッテルを貼られ、社会的に葬られたかに見えた佐野にとって、再生のスタートラインである。「東電OL殺人事件」(2000年)以降、俯瞰で距離を保つのではなく、対象の懐に入り込むようになった。本書でも、唐牛健太郎という魅力ある突破者、アウトローの47年の漂流にインファイトを仕掛けている。

 函館出身の唐牛は北大時代、共産党に幻滅しブント(共産主義者同盟)に加わる。島成郎書記長にスカウトされて全学連委員長に就き、60年安保闘争の象徴になった。本書は60年安保とそれ以降のラディカルな運動に参加し、共産党に決定的な不信感を抱く少数派向けのエンターテインメントで、佐野もそのひとりだ。

 60年安保は岸信介、昨年の戦争法反対は安倍晋三……。主たる敵が一族というだけでなく、マスコミの屈服など重なる点も多い。本書の冒頭に登場するシールズは、既成政党と組み、非暴力を貫いた。安保闘争時のブント全学連は既成左翼の否定から始まり、身体性が際立っていた。60年4月26日、国会前のデモで唐牛が装甲車に飛び乗ってアジテーションする歴史的瞬間は、伝説として語り継がれている。

 ブントの中心メンバーはその後、様々な分野で業績を残す。精神科医として地域医療に携わった精神科医の島(上記)、唐牛の生涯の友だった西部邁、理論的指導者で後にノーベル経済学賞の候補に挙がった青木昌彦と枚挙にいとまない。ちなみに青木は、岸を北一輝の影響が濃い国家社会主義者と論じていた。そして〝輝ける星〟唐牛は漂流者だった。

 文化人もブントにシンパシーを抱く。吉本隆明の「擬制の終焉」、高橋和己の「憂鬱なる党派」、大島渚の「日本の夜と霧」は、いずれも共産党の前衛神話崩壊をテーマにしている。同じく時代の寵児だった寺山修司はカンパ要請を拒否したが、石原慎太郎は大枚をはたいた。石原らしいエピソードである。

 学生運動の拠点は東大と京大だった。全学連委員長にスカウトされた北の田舎者に、〝エリート〟たちは冷たい視線を向けたが、唐牛の野性と情熱は雑音を封じ込める。唐牛はヌーヴェルヴァーグ、パンクであり、天性の傾奇者(かぶき者)――戦国時代を闊歩した異形の集団――だった。ちなみに西部はブント全学連を非行者の集団と評している。唐牛のルックスや放つオーラは石原裕次郎並みで、言動は若者たちを魅了した。

 女性を口説きまくった唐牛だが、後に青木と事実婚する桐島洋子は別の側面を指摘している。関係に臆病で、子供を持たないと決めていたという。唐牛は庶子であることに苦悩し、幸薄い母への思いが強かった。幸せな家庭への忌避感は生き方にも敷衍する。友人だった岩田昌征(社会学者)は唐牛の悔いを以下のように記していた。

 <自分の現場指揮によって生起してた多大の犠牲者、ノーマルな人生設計のチャンスを失ってしまった多くの学生の運命を、心の底の重荷としていた。全学連委員長であった自分は、闘争の血債を支払った者のその後の人生水準よりも上の楽な生活を絶対しない>(要旨)

 自分を律する唐牛の厳しさ、潔さに感銘を覚える。戦争、公害、原発事故と国民に災禍をもたらしながら、責任を逃れ、罪の意識が窺えない者たちに、唐牛の決意はどう響くだろう。唐牛の漂流と下降は、矜持と美学に基づいていたのだろう。

 一瞬で燃え尽きたブントだが、岸内閣を倒し、憲法を守った。安保法反対と比較にならない成果といえる。違いはどこから生じたのか。安保は若者中心で躍動感と身体性(≠暴力性)に溢れていた。機動隊員を引きずるように走った唐牛は、権力側にとって忌むべき存在であり続ける。3億円事件の犯人と疑われ、母の看病のため函館に帰っていた時期(70年代後半)も、公安の監視下にあった。世紀が変わっても、親族の周辺に公安の影がちらついていた。

 西部は唐牛と同郷(長万部町出身)で、ともに文学青年だった。唐牛はマルロー、カミュからハードボイルドまで幅広く小説を読んでいたという。唐牛は68年、安田講堂に籠城した学生たちにヘリコプターから食糧を降下する計画を立てた、聞きつけた西部は、運動と縁を切っていたにもかかわらず、「何か手伝うことはないか」と言ってきたという。開放的な唐牛、粘着質に見える西部……。好対照に映る両者だが、修羅場をくぐった戦友だった。

 <唐牛は家族という最小単位の社会からもずれる種類の人間だった。その喪失、その欠落を補おうとする唐牛の意欲も(中略)激しいものがあった>……。漂流する唐牛の元をしばしば訪ねた西部の唐牛評はいずれも秀逸である。

 死の床を訪ねた西岡武夫、管直人、加藤紘一ら政治家、陰ながら支援した〝財界官房長官〟こと今里広記(日本精工社長)、選挙を応援した徳田虎雄etc……。本書には唐牛に惹かれた著名人が数多く登場する。人たらしの唐牛は、出会った者の心を鷲掴みするのだ。膨大な人脈の中で物議を醸したのが、田中清玄と田岡一雄(山口組三代目)だ。

 ブント全学連は田中から資金援助を受けており、その弟分である田岡も元活動家を系列会社に雇う。白と黒を峻別する二元論者にとって唾棄すべき事態だが、60年代はファジーな時代だった。佐野の著書「旅する巨人~宮本常一と渋沢敬三」に、興味深い下りがあった。そもそも宮本自身、割り切れない存在で、住民運動や解放運動に寄与すると同時に、熱烈な皇室崇拝者だった。当時、黒幕(恐らく田中清玄)、各界の大立者、新左翼党派のリーダーまで集うサロンが存在し、宮本も常連だった。闇鍋のような混沌と曖昧が常態だったのだろう。

 唐牛は漂流を重ねるうち、論理や言葉に距離を置き、日本的情念が濃くなる。行く先々で強い印象を与えたが、闘志的な発言はせず、大酒を食らい、バカ話やホラで周囲を楽しませた。高倉健を気取り、愛唱歌は小林旭の「さすらい」だった。84年、直腸がんで召されたが、悪化しても節制はしなかった。時間を掛けての自殺といえるだろう。告別式では加藤登紀子が「知床旅情」を歌った。

 唐牛は何者だったのか……。勇姿を知らぬ俺には、光の加減と回すスピードで劇的に景色が変わる万華鏡の如くだ。大島渚は「ストイックな生きざまは清々しく痛々しい」と語っていたが、身近で接した桐島洋子は、闘争中もプールで泳ぎ、阪神を熱心に応援し、女の子を口説きまくる唐牛に驚いたという。

 唐牛はなぜ愛されたのか……。佐野の答えは<嫉妬心がなかったから>。唐牛はさらに、徹底した水平思考の持ち主だった。漂流の果て、<不良少年の更生>という生きがいを見つけた。生き永らえていれば、〝非行者の大将〟の再生に多くの者が協力したに違いない。唐牛が最後に夢を手に入れたことに救いを覚えた。

 函館は俺が最も愛する街だ。「海炭市叙景」(佐藤泰志著)を携え、唐牛の痕跡を追ってみたい。2世代下の俺も、唐牛の磁力に引き寄せられつつある。
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