大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年11月29日 | 写詩・写歌・写俳

<454> 続・青空に思う

  どんな人生も 過酷に出来ている 競い合いつつ 消耗し 老いに向い 悩みを生じ 誰もが みんな そうして 生きている そうだ そうなのだ 確かに 過酷は 避けられない けれども ここには 幸せの 歓びもある 小さくても 構わない 人生は 過酷だから その幸せは ほんの ちょっぴりでも 大いに 歓迎される 青い 青い 青空の下で

 <452>に続いて、「青空に思う」を今少し。 晴れ渡った青空を見ていると、加えて思われることがある。青空に奥行を思う心には、吉川英治の『宮本武蔵』の「波騒は世の常である。 波にまかせて、泳ぎ上手に、雑魚は歌い雑魚は躍る。けれど、誰か知ろう、百尺下の水の心を。水のふかさを」というラストの文章に重なって来るところがある。そこには一つの超越された真理に近いものが見て取れる。

 私たちの限られた目と波騒に歌い躍る雑魚の群に対し、青空には奥行があり、百尺下の水には深さがある。ここには生を地上に営む者への存在論的考証における比喩的メッセージがあり、思われるのは奥行を感じさせ、深さを言わしめる深遠の精神である。ところで、その奥行が奥行として思われ、水の深さが深さとしてあるには、そこに対比出来るものが何かあれば、より一層それを認識することが出来る。

 写真を見ていただければわかると思うが、左の写真には青空に比較出来る紅葉した木々が写っている。これに対し、右の写真には青空しか写っていない。どちらに奥行を感じることが出来るか。それは対比するものがある方、つまり、紅葉が写り込んでいる写真の方であろう。これは紅葉する木々の一端が比較に役立っているということである。鳥の群でも写っていれば、『宮本武蔵』のラストの文章とその説明によりぴったりだったかも知れないが、残念ながらそういう写真は撮り得ていない。

                                           

 しかし、ここにおいて、今一つ重要なことは、意識すること或いは感じるという心の在り処というものがそこには欠かせないということである。そして、意識し感じることだけで終わるのではなく、なお思うことが必要であるということである。そこには、私たちが私たち主体をその奥行、或いはその深さから客体視して思う想像力が働かねばならないということである。これについてはベルトラン・ヴェルジュリの『幸福の小さな哲学』(原章二・岡本健訳)の一文が参考になる。ヴェルジュリは「歓びについて」の中で、次のように言う。

「人間の条件から出発するかぎり、善は理解できない。人間の主観性がすべてを相対化するとき、どうして善を定義できようか。ある人にとって善であることも、別のある人にとっては悪かもしれない。 しかし、存在論的な地平に立てば話は変ってくる。そこでは善は、神と人間との関係において、完全な調和が実現されている状態として定義される。」

 つまり、真の善たる真理の側からものごとを見る目がことに当たっては必要であるということを言っている。これは宇宙飛行士が地球を離れて地球を見たときに感じたことに似る。人間同士、或いは、国同士が憎み合って喧嘩をしたり戦火を交えたりするなどということが全く愚かなことに思えて来る(飛行士の証言)ことが言われているが、これは自らを客体視して神と人間の調和において見出される思いにおける善というものに重なるところがある。

 我が国における最近の外交は、尖閣諸島の問題一つを見ても、敵対的様相を先鋭化して展開するやり方に向い、政治の右傾化が進みつつあるように思われるが、こういう問題にも、この宇宙飛行士的なものの考え方が私たちの知恵として必要に思われて来るのである。親和なく敵対するところに開かれて行く道は決してない。何故ならば、そこには相手があり、相手も必ず敵対して臨んで来るからである。ヴェルジュリが言う「存在論的な地平に立て」その関係を見るならば、敵対関係においては一方が善であれば、一方はそれを悪と見なす。その逆も当然のこと起こり得るから、そこには緊張関係のみが高まり、何一つ開かれる思考というものはなされず、良好な関係はもたらされないということになる。

 この状況を喜ぶのは、そういう局面を弄ぶ政治家であり、国家間で言えば、その両国の敵対関係で何らかの利益を得る国乃至は企業、或いは人物ということになる。善というのは私たちの都合によってあるものではなく、神(自然)の下に定義されてあるものであるということである。互いというものは、人間にしても、国家にしても、何故、子供のように無邪気に楽しく親和して行けないのだろうか。子供だっていじめなどがあるではないかという声が聞かれそうであるが。子供にいじめが展開されている状況は子供の中で大人の世界が反映しているのである。青空は何処までも青く、誰が何と言おうとも青い。みんなこの奥行のある青空の下に生を得ているのである。このことに少しでも意識が至れば、多少は穏やかな気持ちになれ、自他の関係にも作用する。