大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年11月27日 | 写詩・写歌・写俳

<452> 青 空 に 思 う

           見しことを真実(まこと)と思ひ詠みなすが青空の奥の奥の奥行

 私たちは私たちの見聞をもって真実と見なす向きがある。しかし、南方熊楠も言っているように、見聞には等差があり、一の見聞は二の見聞に劣り、二の見聞は三の見聞に及ばないということがある。言わば、一の見聞は二の見聞に、二の見聞は三の見聞に、一の見聞だけ確率において真実に遠いということになる。これは見聞がイコール真実でないことを言っていることでもある。よく言われる言葉に「百聞は一見に如かず」という諺がある。この諺は聞くことが見ることに及ばないということを言っているもので、現場に立つか立たないかの違いをいうものであるが、見るということも完璧でないことを暗には言っていると知れる。

  例えば、鈴木牧之の『北越雪譜』は述べている。「凡(おおよそ)物を視るに眼力の限りありて其外を視るべからず」と。肉眼をもって雪を見れば、一片の鵞毛のごとくにしか見えないが、これを、顕微鏡を借りて見れば、鵞毛は多数の雪花を寄せ合わせて出来たものであることがわかるという。これは、つまり、肉眼の限界を言うものにほかならず、見るということが完璧でないことを物語るものである。この例で言えば、私たちの日々は概ね間違ってはいないにしても、真実という意味においては随分とその観察は雑で、過誤に塗れているということも言えるわけである。

                         

 然るに、私たちの営む世界でもっとややこしいのは、「鵜を鷺」というように、黒を白と言い張る思惑が随所に働いてその現象が見え隠れしているということである。これは、自他の関係において己の思惑を反映させようとすることによるものであるが、その底意を見抜くことが出来ないというところがあるわけである。また、詭弁を弄するというようなとき、その詭弁に惑わされることが往々にしてある。ほかにも、ご都合主義というようなこともある。都合による思惑が見抜けなくて、言葉を発する側の都合に乗せられるということも往々にしてある。

  果して衆議院の選挙であるが、政治の世界は一種の権力闘争で、これを争うところにおいては、「鵜を鷺」と言って除けることもあれば、詭弁を弄することもあるし、ご都合主義も罷り通る。民主主義の制度下では、その争いの最たるところとして選挙があると言ってよいが、どの政党、どの候補者の言っている言葉が真実に近いか、有権者は吟味しなければならない。しかし、政治家の言葉は巧みで、聞く方はその言葉に乗せられ、惑わされ、誤った選択をする場合も往々にしてある。ここでいう「誤り」とは自分の思いと違った方向に政治を動かすというところにある。そこで有権者の私たちは、このとき、はたと真実が見抜けなかったということに対して、見えて見えざる真実というものが如何に把握し難いかということをつくずくと思わせられるのである。

  そのときには、見聞をもって間違いのない真実と見なし、歌などにも詠むのであるが、「当たらずとも遠からじ」と言いながら、もの足りないところが気にかかったりするわけで、もっと酷い場合などには、裏切られたなどという言葉も飛び出して来る次第である。ということで、「青空の奥の奥の奥行」という下句の発見に至ったという次第である。要するに、青空には奥があり、見れば見るほど奥が深く、その奥行において考察し、作歌もしなければならないという気持ちが湧いて来るということである。能力に欠けるものとしては、この奥行への思いがより真実に近づき、よりよい歌をなすことが出来、よりよい道を未来へ開くことになると思われるのである。