大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年11月26日 | 万葉の花

<451> 万葉の花 (57)  さはあららぎ (澤蘭)=サワヒヨドリ (沢鵯)

     草もみぢ 人恋しさに 出で立てば

   この里は継ぎて霜や置く夏の野に吾が見し草はもみちたりけり                  巻十九 (4268)  孝謙天皇

 この歌にさはあららぎ(澤蘭)の名は出て来ないが、題詞に「天皇と太后と共に大納言藤原の家に幸(いでま)す日に、黄葉(もみち)せる澤蘭(さはあららぎ)一株を抜き取りて、内侍佐佐貴山君に持たしめ、大納言藤原卿と陪従(へいじゅ)の大夫等とに遣賜ふ御歌一首」とあり、この歌を命婦に読み上げさせたとあるから、歌の中の「見し草」がさはあららぎ(澤蘭)であることがわかる。ほかには登場を見ないので、さはあららぎ(澤蘭)は集中にこの一首のみ登場を見る植物となる。

 これは、梧桐(ごとう)の三首(巻五 810 番の琴娘子、 811 番の大伴旅人、812番の 藤原房前)と同様で、歌にその名は登場しないものの、題詞によって明らかにそれとわかる例である。天皇は聖武天皇を継いだ第四十六代孝謙女帝で、太后は母の光明皇后ということになる。親密であった藤原仲麻呂の邸を訪れたとき、さはあららぎ(澤蘭)一株を抜き取ってこれを題に歌を披露したもので、挨拶歌と言ってよい歌である。

 澤蘭については、『倭名類聚鈔』(938年)に「澤蘭 和名佐波阿良々木一云阿加末久佐」とあり、沢の傍に生える蘭(あららぎ)と言っている。「阿加末久佐」は赤味草という意で、茎が赤味を帯びてよく目につくからであろう。「蘭」は一般にラン科植物に当てられる字であるが、古代中国では香りのよいフジバカマに当てていた。宋の時代になってラン科植物に当てられるようになるまでは「蘭」がフジバカマを指す字であった。両者とも蘭では紛らわしいので、ラン科の方は「蘭花」、フジバカマの方は「蘭草」として区別するに至り、我が国でも、元はフジバカマのことを「蘭」と書いて「あららぎ」と言っていた。宋の時代に重なる平安時代以降、ラン科の植物に「蘭」の字が当てられ、フジバカマは「藤袴」と言うようになって現在に至る。

 フジバカマの「蘭」(あららぎ)が我が国の文献上に初出するのは『日本書紀』の允恭天皇の条で、皇后が姫君のとき庭に植えられていた「蘭」を馬上の役人に所望され、一茎取って与えたという挿話がある。役人は山に入るとハエが多いので、それをもって追い払うというわけで、当時からフジバカマが庭などに植えられていたことを物語る。 『大和本草』(1709年)はこのフジバカマの「蘭」を「眞蘭」と述べて「澤蘭」と区別している。ここでフジバカマの仲間であるヒヨドリバナやサワヒヨドリが考えられるわけで、「澤蘭」(さはあららぎ)が沢の傍に生えるという『倭名類聚鈔』の説明からして湿地に見られるサワヒヨドリがあげられるところとなる。

                

 サワヒヨドリ(沢鵯)はキク科フジバカマ属の多年草で、日本全土に分布し、湿原や湿った田の脇などに生える。高さは八十センチほどで、夏から秋にかけて、真っ直ぐに立つ赤みのある茎の先端に小さな頭状花を多数咲かせる。花は白いものや赤みを帯びるものなど変化が見られ、ヒヨドリバナやフジバカマに似るが、フジバカマのようなよい匂いはなく、ヒヨドリバナほど枝を曲げ広げることがないので判別出来る。

 フジバカマは古い時代に渡来した外来と言われるが、サワヒヨドリもヒヨドリバナも在来で、全国的に分布する。大和ではフジバカマの野生は絶滅したとされているが、サワヒヨドリもヒヨドリバナもよく見かける。この中で人気のあるのはフジバカマで、昔からよく植えられ、和歌にも詠まれて来たが、野生が少ないのでサワヒヨドリを代用した話も聞く。因みに山地の草原には変種のヨツバヒヨドリが生え、大和でも見られる。 写真は左からサワヒヨドリ、フジバカマ(園芸種)、ヒヨドリバナ、ヨツバヒヨドリ。