大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年11月21日 | 写詩・写歌・写俳

<446> 二つの便り

       生はそれぞれ 我が生も その生の それぞれとともにある 一つの生である

       この我が生は みんなの それぞれの生と それぞれに 繋がりを持ってある

 昨日、二つの便りが届いた。一つは高齢者の作品展で、写真の部門に出品した八十歳に近い知人が夫婦して入選を果たし、その喜びの報告をして来たものであり、今一つは私と同年代の夫君を亡くした奥様からの賀状欠礼の挨拶状である。二つはまさしく明暗を分けた内容であるが、齢を重ねて今に至る我が年齢における関わりとして受け止め得る人生の一端が思われたのであった。

 写真展入賞の方は、産品を並べた農家の店先で撮った奥様の方の「笑顔」の写真が最優秀賞に選ばれ、そうめん流しに興じる子供たちを撮った知人の「孫の夏休み」が優秀賞に選ばれたということで仲良く展示されている写真付きであった。

 一方、訃報の方は、まだ亡くなるには早い年齢であるからびっくりであった。賀状欠礼の挨拶状は毎年、二、三枚は届くけれども「夫」が当事者というのは初めてである。言わば、私もその年齢になったということである。人のことなど言えた義理ではない。私も心筋梗塞で手術を受けた身。命が危なかったことを思うと身につまされる。

                                         

 この明暗二つの便りを手にしたとき、人生がそれぞれであると思うのと同時に、それぞれの人生がそれぞれにあってこの世の光景は展開しているとも思われたのであった。そして、それぞれはそれぞれにあって関わりを持っているということが感じられた。夫君を亡くした奥様は悲しみに暮れながらも、夫君の始末をきっちりとこなしている。仲良く受賞した老夫婦も夫婦の姿であれば、夫君を亡くした奥様に見る夫婦も一つの夫婦であり、夫婦像というものが感じられたことではあった。

 以上のごとく、二つの異なる便りを手にして思うことではあったが、我が年齢にして夫婦というものに思いがいった次第である。生はそれぞれで、一人一人異なっているものであるが、そのそれぞれがみんな何らかの形で繋がっている。その最たる関係が夫婦というものであろう。歳が行くとそれが殊更に思えて来るということであろう。

 二つは明暗を異にする便りであったが、そこには夫婦の夫婦たる形が滲み出ていて一種心を動かされるところとなり、ここに紹介した次第である。写真は左が夫君の逝去を知らせる奥様からの賀状欠礼の挨拶状。右は高齢者文化作品展に入賞した知人からの報告の便りである。