大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年11月12日 | 写詩・写歌・写俳

<437> 時 雨

       時雨雲 政治に急変 あるごとく

 時雨と書いて「しぐれ」と読む。『広辞苑』によると、「過ぐる」から来ている語で、通り雨の意。本意については、「秋の末から冬の初め頃に、降ったりやんだりする雨」をいう。ちょうど今の時期に見られる雨で、俳句の季語では初冬に当たる。山国の大和ではよく見られ、今日も午前中はそんな時雨模様の天候だった。

 しぐれは『万葉集』にも四具礼、思具礼、鍾礼、之具礼などの万葉仮名表記で登場し、昔から前述のような意味に用いられていたことがうかがえる。「うらさぶる情(こころ)さまねしひさかたの天(あめ)のしぐれの流らふ見れば」(巻一 82 長田王)が最初に見られる歌の中の時雨で、この歌は題詞に「和銅五年壬子の夏四月」に作るとあるから、これは不自然であると見なし、左注にはそのとき詠んだものではなく、古い歌ではないかとつけ加えている。

                                              

 所謂、時雨は晩秋から初冬のころに降る雨の中で、降ったりやんだりする特徴をもって定義されている雨ということが出来る。『古今和歌集』には時雨の二字が見え、「たつた川もみぢばながる神なびのみむろの山に時雨ふるらし」(巻5 284  よみ人しらず)とあって、平安時代には「しぐれ」を「時雨」と表記したことがうかがえる。

 「十月(かむなづき)しぐれの常か吾が背子がやどの黄葉散りぬべく見ゆ」(『万葉集』巻十九 4259 大伴家持)と詠まれているように、時雨は概して紅葉(黄葉)をもたらし散らす雨とする感覚によって詠まれていることが多いが、『古今和歌集』に次ぐ勅選集で知られる『後撰和歌集』(巻八 445 よみ人しらず)の「神無月ふりみふらずみ定めなき時雨ぞ冬のはじめなりける」という歌によって、時雨の本意がはっきりとして見え、以後の意味づけに影響したことが言われている。

 つまり、しぐれは冬を招く雨で、「ふりみふらずみ定めなき」雨であって、人生の無常と寂寥が季節の移ろいとともに感じられる雨として、後の短歌や俳句にも影響したと言える。では、その時雨を詠んだ二、三の歌や句をあげてみたいと思う。みな何となくさびしさをともなっているのがわかる。

   世にふるは苦しきものを槇の屋にやすくも過ぐる初時雨かな             二条院讃岐 (『新古今和歌集』巻六)

   ゆふされば大根の葉にふる時雨いたく寂しく降りにけるかも             斎藤茂吉 ( 『あらたま』 )

      旅人と我名よばれん初しぐれ                            松尾芭蕉 ( 『笈の小文』 冒頭句 )

      うしろすがたのしぐれてゆくか                               種田山頭火 ( 『山頭火大全』 )

 なお、時雨にはいろいろと添い来る言葉によってニュアンスを異にし、日本語の奥深さを思わせるところがある。最後に、それをあげてこの項を終わりたいと思う。朝時雨、夕時雨、小夜時雨、村時雨、北時雨、片時雨、横時雨、時雨心地、時雨傘、時雨の色、川音の時雨、松風の時雨、木の葉の時雨、袂の時雨、袖の時雨、涙の時雨、さんさ時雨、蝉時雨、時雨月、時雨煮、時雨忌、時雨饅頭等々。