大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年11月22日 | 写詩・写歌・写俳

<447> 電車図書館

       着くまでの 四十五分間今日も 電車図書館 異郷への旅

 この歌は私が勤めをしていた二十年ほど前に作ったもので、通勤は電車で一時間ほどかかったが、その車中での状況を詠んだものである。電車では新聞に目を通す人、雑誌をめくる人、参考書に見入る人、文庫本に釘付けの人、中には分厚い単行本を膝に置いて読んでいる人もいるといった具合で、それはさながら「電車図書館」と呼んでよいような光景だった。

 私も電車の中ではよく本を読んだもので、読みながらよく思いの中に逸れて、ときには本を仲立ちに異郷への旅を試みたりした。その旅はいつも中途半端に終わったが、旅を試みる「電車図書館」のひとときは楽しいものだった。疲れているときは、読む気力がなく、異郷への旅も中止して寝たりしたが、ほどよい電車の揺れが眠りを誘い、心地のよいものがあった。

 この「電車図書館」がこのところ様相を変えて来た。電子図書化も進んでいるようであるけれども、電車の中の光景が変わって来たのである。それは、本や雑誌や新聞の代わりにインターネットと連動した多機能型携帯電話のスマートフォンなどに見入っている乗客が極めて多くなったことである。

 これは通信機器の発達とデジタル化の影響するところであるが、この光景はほかでも見られる。例えば、携帯電話は写真の機能を有し、誰もがいつも肌身離さず持っているので、これは総カメラマン化と言ってよく、祭りの雑踏などでも、見物する人たちがみなカメラマン化しているのがわかる。そして、撮った写真はパソコンとインターネットの機能によってすぐに目的のところへ伝達出来るようになっている。

                                                         

 この間も秋祭りを見物に行ったら、テレビのカメラが何台も見えるので、放送局が取材に来ているのかと思っていたら、それはみんなアマチユアだった。要は、それを趣味にして遊んでいる連中だったというわけである。多分、インターネットの専用サイトなどに祭りの映像を乗せるのが目的なのではないか。そのほかにも、カメラ代わりの携帯電話を手にかざして見物する人たちがみんな撮っていた。昔では考えられない光景である。

  電車の中でスマートフォンを操る乗客の光景もこのような祭り会場に見られる総カメラマン化の状況も、これはデジタル化とインターネットという情報ネットの進展によるもので、この技術における影響力は産業革命にも匹敵するものと言ってよかろうと思う。この小さな掌中のメカをみんな当たり前のように使っている。このメカが文明を変えつつあることは確かなことである。

 このような状況に至っては「電車図書館」の光景を詠んだ歌は昔語りで、今日では通用しないと言わざるを得ない。が、敢えてこの古い歌を紹介したのは、アナログの時代からデジタルの時代への転換期に身を置き、やって来た証として示して置きたいという気持ちがあったからである。と同時に、この技術的革新の基には喜びを喜びとし、悲しみを悲しみと見る普遍の人間性というものがあることを忘れてはならないという思いが一方にあるからである。

  これは、写真がフィルムレスの時代になったのと軌を一にするものと言ってよく、アナログ時代のエースであった古老たちも見えた「電車図書館」の光景の中に一つの自負と愛着があって、技術に追いやられたその過去に思いを致す気持ちがあったからである。時にメカの安易に流されるような場面に出会ったりすると、アナログ時代の懸命な共同作業などが思い起こされ、熱いものが湧いて来る。そのようなとき、「電車図書館」の光景はふっと心の中に点るのである。